菊地 悦子(きくちえつこ)
【その3】
村の棚田に水が張られ、青い空を映し出していた。もうじき田植えが始まる。大人はもちろん、少し大きいこどもらもみな総出の、忙しい時期がやってくる。
おらは大イチョウのてっぺんに腰をかけ、足をぶらぶらさせながら村をながめていた。イチョウの葉っぱはだいぶ緑を濃くして、風が吹くたびざわざわ鳴った。そろそろコウコが学校から帰ってくるころだと思っていると、案の定、大イチョウの木の下で上を見上げるコウコの小さな白い顔が見えた。
「なあ、まき山さ行ってみんべ」
まき山は高学年のこどもらが連れ立ってよく行く山だ。年少のこどもらだけでは行かないことになっているが、じいちゃんが生きてるときはよく連れてってもらったのだからといって、ときどきおらを誘う。
コウコが野道をぎゅっぎゅと歩くと、草が匂い立った。少しハッカの香りがする。おらは鼻をクンクンさせながら、コウコの少し後ろをついていく。
「ほら、桐の花咲いでる!」
立ち止まったコウコがまぶしそうに目を細めた。背の高い山桐が一本、すっと立っていた。小さなラッパのような紫の花がとんがり帽のように重なり合い、枝の先という先に鈴なりに咲いているのだった。時折、甘い香りがふわりと広がる。ふたりともなんだかうっとりしてしまって、青い空に薄紫の塊がゆらゆら揺れるのを、いつまでも眺めていた。
「あのな、おらが生まれたとき、母ちゃんと父ちゃんが桐の木植えてくっちゃんだって。おらが嫁にいくとき、それで箪笥こしらえてやんだぞって、ばあちゃん語っけど、おらの桐もいつかこんなに大きくなって、きれいな花、咲かすかな」
「コウコの桐が大きくなる頃には、コウコも桐の花みてな花嫁になんべな」
おらがそういうと、コウコはびっくりしたように目を見開いた。
「うう、やんだ。おら、大人にもなんねし、お嫁さなんかいがねもの」
その様子があんまり真剣なものだから、おらはついからかいたくなる。
「コウコなんかすぐ大人になんべ。もうおらよりこんなに大っきくなって」
「なんねよ、なんねよ。大人になんか、なっちゃぐねもの」
「コウコなんかすぐ嫁さまさなんべ。花みてなきれいな嫁さまに」
「なんねよ、なんねよ。嫁さまさなんか、なっちゃぐねもの」
コウコは赤いほっぺたをふくらまし、おらを叩く真似をする。
ふざけながら歩いていると、笹薮から黒くて丸いものが飛び出してきた。子熊だ。子熊はおらたちにどんどん近づいてきた。
「コウコ、動ぐなよ。母熊も近くにいっから」
予想通り、すぐ後から母熊が姿をあらわした。コウコを見て殺気立っているようだ。
「大丈夫。なにもしねがら」
おらは母熊に向かって静かにいった。母熊は、おらとコウコを交互に見ている。
「大丈夫。おらたち、何も邪魔しねがら。早く子熊連れて奥さ行げ。こんな里まで出てくんでねえぞ」
子熊は嬉しそうにおらに駆け寄ってくる。人も熊も、幼子はみな同じだ。違うのは、山の獣たちは大人になってもおらが見えるということだ。
今度は子熊にいった。
「早く、母ちゃんとこさ行け。心配してっから。里はおっかねとこだ。母ちゃんから離れんでねえぞ。早く!」
母熊がグルルとうめくように鳴くと、子熊は急いで母熊のところへ戻り、二頭は木立の奥へと消えていった。
「ああ、たまげた。子熊っこめごかったなぁ。おめのいうごと、ちゃんと聞いでだもなぁ」
それからしばらく、コウコの質問攻めが続いた。
「なあなあ、あの鳥は、なんて語ってんの?」
「なあなあ、虫ともしゃべられる? 魚は?」
おらは笑って答える。
「んだなぁ、聞きっちがりのなあなあコウコがきたぞ」っていってんなぁ。
コウコは「うそばっか」と、また頬を膨らませた。
小川沿いに歩いていくと、小さな沼に出た。沼を取り巻くように木々が繁り、水面に緑を映している。モリアオガエルに卵を産み付けられた樹木は、泡の塊が重たいのか、おっくうそうに枝を垂らしていた。
「うお、オタマジャクシいっぺいる!」
沼をのぞいていたコウコはうれしそうに叫ぶと、ズボンをたくし上げズック靴を脱いで沼に入った。ふくらはぎまで水に浸かり、足をバシャバシャさせるたび、産まれたての命たちはころころとはしゃぎまわる。水しぶきが光の玉となって、コウコと水のいきものたちを包んでいた。
「あっ!」
叫び声とともに、コウコの笑顔が歪み、足元の水がみるみる赤く染まっていく。恐る恐る持ち上げた足の裏には、割れた瓶のカケラが突き刺さっていた。
「コウコ、水からあがって! 気ぃつけて!」
両手をついて岸にたどりつくと、コウコは顔を真っ赤にしてカケラを取った。「はうっ、はうっ」と肩で息をし、泣きたいのを我慢しているのは、いかにも強がりのコウコだ。おらは傷口にふーふーと息を吹きかけてやるが、おらの息には温度もなければ空気もない。
足の傷からは、ぽたぽたと血が垂れている。こんなとき、おらができることはとても少ない。コウコに肩を貸してやることも、傷の手当をしてやることもできないのだ。