鈴木 サナエ(すずきさなえ)
昨年11月末日、会津若松の風雅堂で、「会津第九の会」によるベートーベンの第九を聴いた。それに先立ち、会の代表である小熊氏の「松江豊寿と第九」のお話があり、聞き入った。松江は会津若松出身の軍人で、第一次世界大戦中に四国にできた坂東俘虜収容所の初代所長であった。松江はドイツ人捕虜に対し、「あなた方は罪を犯したわけではなく、国のために戦ったのだから誇りを持て」と諭したという。そして、アジア初の第九の演奏会の開催へと導いた。
父・鈴木良三郎は太平洋戦争で戦い、オーストラリアのカウラで捕虜生活を送っている。三回目の奇跡は、数々の海戦を戦い抜き、帰還した父の戦争の断片を記してみたい。
父は大正10年八月、農家の三男として生を受け、高等小学校を卒業して、猛勉強の末、昭和13年晴れて海軍志願兵となって一歩を踏み出す。父は入隊後も真面目に勉強し、順調に階級を上げ、戦艦「山城」にも乗り、最終的には舞鶴で駆逐艦「夕雲」の艤装(ルビ・ぎそう)(鑑内整備)に取り組み、「夕雲」と軍人生活を共にした。真珠湾攻撃は試運転という前触れで出航し、戦争になるとは聞かされてなかったと聞く。
続くミッドウエイ海戦は惨敗したが、ひっそりどこかの港に帰り着き、さらに横須賀に帰港、またすぐに戦いに出航していった。
その後南太平洋のソロモン諸島海戦などで戦い、名高いキスカの撤退作戦にも参加し、18年4月に亡くなった山本五十六の御遺体を日本に運んだ乗組員の一人とも聞いた。
父は、公ではとても厳しく、私的には上下の差別なくとてもフランクに接してくれた山本を生涯深く敬愛し尊敬していた。
18年10月、ベララベラ島に向かう途中、夕雲は集中攻撃を受けて撃沈し、海に投げ出された。その時、サメから身を守るため、褌を長くして、二日間船の破片に捉って無人島に泳ぎ着いた。サメは自分より大きな物には襲わないのだという。生のトカゲを食べて「あんなのは旨いもんだったわやあ」と言ったが、やがて食料も水も尽き、フラフラになっているところを米軍に捕まり、オーストラリアのカウラ捕虜収容所に送られた。
父がキャンプと言っていた収容所では、日本人は米や魚を食べるというので特別に用意され、軽い作業をしながら野球等の娯楽もあった。それでも父たちの気持ちは勿論鬱として晴れず、やがて19年8月の脱走事件が実行されることとなった。
キャンプでは、階級に関係なく、何でも話し合いで決めるといった、いきなりの民主主義で戸惑いもあった。40戸もあるキャンプの一つの班長であった父は打ち合わせと逆の方向に導いてしまったが、その結果、班内の捕虜の多くは助かった。武器といっても、ナイフとフオーク、野球のバットであったが、住まいであったキャンプに火を放ち、少しでも敵を後方攪乱し、自分たちも死ぬための暴動であったという。この暴動で200名以上の日本人が亡くなっているが、オーストラリアでは遺体を一体一体毛布でくるみ、お祈りと共に手厚く埋葬してくれた。そして数名が裁判のようなものにかけられたきり、他は何のお咎めもなく、別のキャンプへ移動したのだという。
こうして父は21年3月、極度の栄養失調の身体で帰還した。後にマスコミ他でも体験談を聞きたいとの要望もよくあったが、「正しく伝わらないから」という理由で、決して受けようとはしなかった。多くを語らない父であったが、最後まで海軍としての誇りは胸にあったのだと思う。

(月刊会津嶺 2026年3月号【風・奥会津】より転載)