菊地 悦子(きくちえつこ)
今から半世紀以上も前のことだけれど、昭和村出身の友人の家では、綿羊を一頭飼っていたという。一年に一度毛刈りをして業者に託し毛糸にし、母親はその毛糸で家族の手袋や襟巻やセーターを編んだ。
綿羊一頭から二、三キロの毛糸が取れるらしい。セーターなら二、三着分で、それは母親がひとり、秋の夜長に編み上げるにはちょうど良い加減の分量だったに違いない。
もうじきやってくる冬に寒い思いをしないようにと、母親が心を込めて編んだセーターはどれほど暖かかったろう。小さくなれば、ほどいて洗って編みなおす。綿羊の毛糸は、繰り返し繰り返し、冬の間の家族を包み続けた。
綿羊のいる小屋はトイレの隣にあって、しゃがむとちょうど、小窓から覗く綿羊と目が合うのだと友人は懐かしそうにいった。朝、刈ってきた草を綿羊に与えるのはこどもらの仕事だった。衣食住が、生きものの営みの延長にあることを、暮らしの中の当たり前として知る友人を、わたしはとてもうらやましく思ったのだった。
そして、それ以上に、毛糸を手に入れるために自ら綿羊を飼ってしまうという、おそらくは母親の英断に敬服した。
昔といっても昭和三十年代後半から四十年代のことである。毛糸はそこまで入手困難だっただろうか。糸のために綿羊から始めることは、むしろ友人の母親の好奇心とチャレンジ精神ではなかったかと思うのだ。
沖縄の宮古島で、おばあたちから何度も聞いた話がある。
戦後、米軍払い下げの木綿の靴下をほどき、糸にして布に織り、下着でもシャツでもなんでも作ったんだよと、彼女たちはいった。そういうときのおばあは、みな誇らしげで楽しげで、創造することの喜びに溢れているように見えた。
「糸さえあればね」とおばあたちは胸を張る。
きっと、糸ってやつは、宮古島のおばあや友人の母親を突き動かすほど力があるのにちがいない。昔はものがなかったから、というだけではない情熱だ。そしてそれは、昭和村も宮古島も、ともに古くから、からむしの生産地であることと無関係ではないだろう。その原動力は、あるいは、からむしを刈り、自ら糸を績むという縄文の女たちのDNAにまで繋がるのかもしれない…
そんな勝手な想像は脇に置いても、毛糸のために綿羊を飼ってしまう友人の母親も、靴下を糸にしてしまう島のおばあたちも、とかくカッコいい。カッコよくて、なんとも痛快なのだ。
(月刊会津嶺 2024年5月号【旅とことば】より転載)