鈴木 サナエ(すずきさなえ)

久しぶりに只見町の塩沢にある「河井継之助記念館」を訪れた。目の前にはダム湖と化した只見川がゆったりと横たわり、白鳥が飛来してくる日も近い。折よくボランテイアガイドの方に案内して頂き、再来年は継之助生誕200年に当たるとも聞いた。
只見で出会った奇跡の風の二つ目は戊辰戦争のおり、只見の塩沢で亡くなった河井継之助の「終焉の間」を愚直なまでに守りぬいた矢沢家に纏わるお話である。
只見町塩沢は、司馬遼太郎の小説「峠」で有名な長岡藩の上席家老で軍司総督の河井継之助の終焉の地であり、平成5年に再建された記念館には「終焉の間」がそっくり移設されてある。しかし、娘が小学校の高学年の頃、家族で町の名所旧跡を巡った40数年前の旧記念館には「終焉の間」はなかった。旧記念館を一通り見終わって、何げなく継之助を看取った、矢沢宗益医師の家の前を通ったその時のことである。矢沢家のお宅にはダム建設で新築された家の端っこに「終焉の間」がそっくり移設され、お盆も近いこともあって表の方に祭壇がしつらえてあり、奥には終焉当時の薬函、ヤカン、毛布、掛け軸などの品々がそのまま陳列してあり、現当主の大二さんが挨拶を受けておられた。私達は何も用意してこなかった不調法を詫びつつ、お線香を上げさせて頂いたのだが、大二さんは、なぜこれほどまで頑なに「終焉の間」を守っているかを熱く語って下さった。
戊辰戦争当時、長岡藩の上席家老とはいえ、この地方に継之助を知る人は居なかったであろうし、矢沢宗益医師も例外ではなかったであろう。しかし、継之助が数日投宿している間、傷の痛みも相当であるはずなのに、「痛い」等の弱音は決して吐かなかったという。自分の死期を悟り、従僕の松蔵に棺桶を作らせると、遺体は当時この地方には例がなかった荼毘にふすように指示して、永い眠りについた。これらのあまりの立派な態度に宗益医師は
「この方はとても偉大な人で、後々きっと世に出る方だから、遺品を始め、この部屋を大事に守るように」
との言葉を遺された。その後、矢沢家の方々は五代に渡り、その言葉をずっと守り通してこられた。特に大二さんの先代の伊織さんは、昭和30年代、滝ダム建設で家の移転を余儀なくされた折り、終焉の間をそっくり移設することに対しては補償金の対象にならず、やむなく自費で移設されたのだという。
継之助は勿論、坂本竜馬とも並び称される歴史に名を遺した立派な人物だが、瞬時にそれを見通した宗益医師の眼力、そして、何より、世の中の動向に振り回されることなく、その遺言通り、継之助終焉の間をずっと守り通して来られた矢沢家の方々の並々ならぬ強い意志に深く感じ入り、この日、私達は得難い貴重な時間を頂いた。
司馬遼太郎はとてもよく取材する人だったというが、「峠」を毎日新聞に連載中は只見を訪れていない。連載中に只見を取材し、遺された言葉を守り通した矢沢家の大二さんと巡り合い、この景色の中に佇んでいたなら、継之助の最後の日々がもっともっとリアルに膨らんでいたに違いなく、残念でならない。

(月刊会津嶺 2025年12月号【風・奥会津】より転載)