【きかんぼサキ第2部】ひょっとこ女将 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ第2部】ひょっとこ女将 NEW

2025.11.15

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 サキノの叔母に保健婦をしている人がいた。町の役場に勤め真面目できちっとした性格で、何かとサキノのことは気にかけてくれる人だった。その叔母が趣味で日本舞踊を習っていた。人にも教えられるようになってきた頃、こんなことを言ってきたという。
「だんだん教えられるようになったから、まずはサキに教えてぇと思ってんだ。旅館の女将なんだから、踊りの一つも出来ねぇではいられねぇべ」と。 
 体を動かすことは大好きなサキノのこと、せっかく教えてくれるならとすぐに習い始めた。恥ずかしいなど知らぬサキノは、覚えた曲は早速お客様の前で、気持ちよく踊る。サキノが始めたのを見て、近所の女性達も叔母の元で習い始めた。昭和50年代も後半にはカラオケも普及し、手拍子の時代から音楽をかけて歌い踊る時代へ移っていた頃だった。

 サキノの旅館がリニューアルオープンした平成3年頃は、町も様々な動きに取り組んでいた。平成2年には“妖精の里づくり”を宣言。3年には大きな大蛇が完成し、その年の湖水まつりにはお披露目された。また、4年には「道の駅・こぶし館」、5年には「妖精美術館」も開館。小さな町であっても町おこしというスローガンのもとに、どうしたら人を呼べるか盛んに模索している時代だった。
 そんな頃、新たな町おこしを始めようと動き出した人たちがいた。後に町長となる長谷川律夫さんたちグループだ。長谷川さんの奥様、長谷川カツ子さん(81歳)が当時を語ってくれた。
「元々ここらでは農閑期に方々を巡る神楽の人たちがいたのな。その中のひょっとこ踊りがうんと楽しくていいから、それで他から来た人たち喜ばせられねぇかって始まったみたいや。長谷川工務店の社長さんが教え始めて、そこに家でも習いに行くようになった。後では家にも集まって練習してたよ。平成4年のこぶし館のオープニングで踊ったのが最初だったな」と。
 長谷川律夫さんと言えば“ひょっとこリー”と呼ばれる程、自らも踊りを広めた方だ。長谷川さんにサキノが誘われたのは、始めてすぐのことだった。町おこしと言われてサキノ自身は何の迷いもなかったのだが、日本舞踊を教える叔母だけが難色を示していたという。
「せっかく踊れるようになってきたのに、そぉだひょっとこなんてやり出したら、こっちの踊りがおかしくなっちまう。だめだ!だめだ!」と。
 そう言われても、ひるむはずもない。
「まぁやってみねぇと分かんねぇべ。やってみてダメの時はやめっから」
 相変わらずのサキノだった。

 そうしてサキノはひょっとこの世界に入り、あれよあれよという間に多忙な日々になっていった。サキノ単独で踊ることも勿論あったが、栗田孝子さんという相方との絶妙なコンビは好評だった。そして研究熱心な相方が、曲に合う衣装や小物などをあちこちから誂えた。
 旅館の夕食の時、サキノが賑やかに踊る機会が増えてきた。どこで聞きつけたのか、ひょっとこを観たいという声が多くなってきたからだった。神楽のひょっとこの曲で踊り、次に「麦畑」のような軽快な曲へとチェンジ。その際の踊りはアドリブが多く、相方を困らせつつもその日の気分や雰囲気で踊っていたようだ。踊る舞台から飛び出し、ノリのいいお客様に近づきながら巻き込んでしまう。まさしく、サキノ流の勝手気ままなひょっとこだった。どんどん楽しくなってきたのだろう。そのうち曲が変わる時、衣装を早変わりして登場するようにもなった。こうなるとまた盛り上がる。このお客様の喜ぶ顔が、サキノを大いに奮起させていたことは間違いない。本来の仕事をこなしながら汗だくで踊る日々。若さゆえのパワーと、これは自分にしか出来ないおもてなしと信じて疑わなかった。

 サキノたちコンビの醸し出すひょっとこ踊りと、長谷川さんが得意とする、半面で口元の表情で楽しませるひょっとこ踊りは、当時様々な場所から依頼を受けるようになってきた。サキノも可能な範囲であちこち出掛けた。サキノは仕事で行けなかったが、最大の遠征といえば、妖精の里を謳っている繋がりで本場イギリスからの依頼だった。もしサキノが行っていたら、ロンドンのエリザベスホールの大舞台で生き生きと踊っていたに違いない。

 ひょっとこを踊り出して少し経ったある日、サキノは難色を示していた叔母の前で日本舞踊を踊ってみせた。
「なじょうだよ(どうですか)?おかしくなってっかよ?」
 何も言わぬ叔母に
「ほぉら言ったべ。何にもさすけねぇって」
 叔母の心配をよそに、サキノはどちらも楽しんでいたようだ。本人が伸び伸び踊る様子に叔母もうまく納得させられてしまったのかもしれない。
 
 サキノが盛んにひょっとこを踊っている頃のことだ。銀行の旅行で、“どじょうすくい”で有名な安来に行ったことがあったという。宴会では本場のどじょうすくいが披露された。その後のこと、一緒に行った建設会社の社長が宿の人と何か話している。それからしばらくした時だ。また別の踊り手のどじょうすくいが披露されたのだった。
「大滝の社長は宿の人にもう少しどじょうすくいが観てぇ。ここらで一番上手に踊る人、また頼めねぇかって訊いてくれたようだった。それはオレに一番いい踊り見せてやりてぇ。オレのひょっとこの参考にさせてやりてぇって事だったのや。勿論その銭は社長が払ってくれただぞ。ありがてぇな」
 こんな粋な応援を頂きながら、サキノはひょっとこ女将としての日々を送っていた。その充実感はどんな疲れも吹き飛ばすものだったに違いない。