【きかんぼサキ第2部】夫の形見の大型バス | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ第2部】夫の形見の大型バス NEW

2025.11.01

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 サキノの旅館の周りに蕗の薹がポツリポツリと姿を現す頃から、旅館にもそんな山の幸を売りに来る人がポツンポツンと訪ねてくる。
「〇〇採れたから、また使ってくんつぇ」と。
 旅館から見える対岸の斜面に福寿草が咲き始めると、堰を切ったように、こぶし、カタクリ、桜へと、春の花々が彩を添えていく。そうして旅館にはゴールデンウイークという、目がまわるような忙しい日々がやってくるのだった。毎年猫の手も借りたい程忙しいのだが、それに加えその年は宿をリニューアルオープンして初めて迎えるゴールデンウイークだった。昼は宴会のお客様、夜は宿泊のお客様とまさしく休む間もない。実はこのリニューアルを機に、二人姉弟のどちらも東京からUターンして帰っていた。山の宿に家族全員が揃い、新しい船出を切ったばかりの春だった。
 鮮やかな木々の芽吹きや様々な山の恵みに溢れるこの季節は、雪国の人々にとって最も幸せを感じるひとときかもしれない。一方でサキノの旅館ではそんな気分を味わう間もなく、何とか書き入れ時を終えたばかりの頃だった。ある夜、サキノと私が調理場で明日の宴会の仕込みをやっているところに、夫(紀由)がやってきた。
「なぁ、花見にいがねぇか?」
「なにぃ-花見?なに寝ぶらけてんだ(寝ぼけてんだ)!今何時だと思ってんだよ!」
 サキノがそう言うのも、もっともだった。この時、時計は深夜の12時を回っていたのだ。
「そぉか、行かねえのか…」
 一言寂しそうにつぶやき、紀由はどこかへ行ってしまった。
 とにかく早く仕事を終えて休みたい。サキノと私はこの突拍子もない深夜の誘いを気に掛けることもなく、黙々とフライの衣付けをやっていた。それからややしばらく経っていただろう。また紀由が戻って来た。
「バスのタイヤ、池に落としっちまった。なじょすんべ」
「なにぃ――!!!」
 この後のサキノの怒りはいつも通りのことだ。私は父(紀由)の行動が皆目見当がつかず、二人のやり取りを聞いているしかなかった。
 紀由が私たちと見ようとしていた桜は、川向こうにある保養センターに咲く桜だった。その桜を車のライトで照らして一人眺めていたのだが、見とれる間に間違ってアクセルを踏んでしまったのだろう。そばにある小さな池に脱輪させてしまったのだと言う。漫画のような顛末に思わず笑いたかったものの、仁王のようなサキノの前では思いきり笑う訳にもいかなかった。車は次の朝早く親戚に上げて貰い、事なきを得たかに思われた。

 紀由が突然亡くなったのは、それから十日も経たない頃だった。脳出血だった。あまりにも突然のことに、予約変更の対応、葬儀の対応…サキノが悲しんでいる姿など当然見ることはなかった。そして、サキノは51歳で未亡人となり、リニューアルしたばかりの旅館の大黒柱となってしまう。家族が揃って旅館を営んでいた期間は僅か半年だけだった。
 そんな突然の葬儀で立て込んだ最中に、ある1本の電話が入る。それは車のディーラーからの電話だった。
「バスに入れる文字はどのようにしますか?」と。
 何が何だか意味が分からない。またしても紀由の仕業だった。池に落としたバスを見て、これは買い替えるしかない!と早速購入の連絡を入れてしまっていたのだ。その電話によって、一家は、知らぬ間の紀由の行動を知ることとなる。

 落ち着いた頃、新しいバスが納車された。
「これはお父さんの形見の車って思うしかねぇわな」
苦笑いしながらサキノが呟く。家族で大型免許を持つのはサキノだけになってしまった。当面その車に乗るのはサキノしかいない。普通ならば、形見と思って丁寧に慎重に乗ることだろう。だがサキノのこと、
「おかみさん、もう少しゆっくり走って頂けますか?」
「そぉだことやってられねぇ!お客様が待ってんだ!にしゃ(貴方)だちの為に走ってんでねぇ!」
 後日、テレビの取材を受けた際、テレビ局の若いクルーの人たちに放った一言だ。バスでの送迎シーンを是非撮りたいとのリクエストに、ちょうど宴会の送迎が入っていた。いつもぎりぎりまで仕事をこなし迎えに出る。サキノには時間の余裕など全くないのだった。撮りたいクルーの希望は、またもどこ吹く風。結果クルーの一行はサキノの車に追いつけず、そのシーンは別のシーンに切り替わることとなった。走り屋サキノはこんな調子で、形見のバスをビュンビュンと乗り倒していたのだった。

 ある日サキノは、花見に誘われた日の思い出を語ったことがあった。
「あん時、花見に行ってやれば良かったかなぁ。あぁだこと言ったのは、死ぬのどっかで分かってたんだべから」。
 花を愛でることなど思いつきもせず過ごした夫婦(家族)が、最後の最後にそんなひとときを過ごせたのかもしれない。少しだけ気の毒に思えてきたのだろう。しかし、たとえ行ったとて、そこで果たしてどんな会話が…? 紀由にとってきかんぼサキと過ごした人生の幕引きは、寂しくもありつつ二人らしい形だったのかもしれない。