鈴木 サナエ(すずきさなえ)
昭和二十三年六月八日、長子のお産の時は母親の実家が面倒を見、産後五十日ぐらいは実家で過ごすという慣わしでしたが、その慣わし通り長子である私は、今は湖底に沈んでしまった田子倉の母の実家で産声を上げました。
祖母の家がダム建設のため只見へ引っ越す昭和三十年まで、私は七キロ余りの道を両親に手を引かれ歩いて、あるいは木炭バスやガソリン車に乗って、田子倉に泊まりに行きました。その数年間、幻のようでもあり、鮮明でもあるような田子倉の漫然とした記憶の断片を記しておこうと思います。
【春の日のネコヤナギ】

田子倉は中央を大きな只見川が流れ、村中に小山と呼んでいた標高四百五十メートルくらいの山が聳え立っていました。只見からはへつりを通り、お墓のそばを抜けると、本村の中央あたりの三本口(さんぼんぐち)(三叉路)に来ると、正面に地蔵堂がありました。
その昔、廻り川制度によって、捕獲された鱒や、山で捕れた獣を平等に村民に分けたのも、この地蔵堂前と聞いています。
母の実家である祖母の家はその少し奥にあり、皆川本家の新宅であることから、通称「新屋(あたらしや)」といい、祖母は新屋のイチ姉(いっちゃね)と呼ばれていて、身じまいの綺麗なきりっとした働き者でした。
すぐそばには大きな梨の木があり、家の前にはお蚕さんの作業をするための、一間幅もある庇が出ていましたから、そこは近所の子どもたちの格好の遊び場になっていました。
小山に少し登ると、マンサクやユキツバキがたくさん咲いていましたし、山のすそ野の田圃当たりではドジョウ捕りをしたり、地蔵堂の廻りではかくれんぼと、大勢の仲間たちとの遊びには事欠きませんでした。
そんなポカポカとあたたかな春の日、私は同い年の従兄とたぐら沢沿いを歩いていて、雪がまだ残る沢の中に、キラキラ光る綺麗なネコヤナギを見つけました。二人とも欲しくてたまりません。石積みを伝って沢に下り、手を繋いで精いっぱい伸ばし、やっとの思いでネコヤナギを折りました。それを両手に抱えて意気揚々と家に帰ったのでした。
しかし、雪解けによる水かさの増した沢に下りることは危険極まりなく、帰宅後にこっぴどく怒られたそうですが、怒られた記憶は全くありませんから、ネコヤナギを手にしたのがよほど嬉しいことだったのだと思います。
【生大根に生味噌】
祖母の家は中門づくりで馬を飼っており、馬屋の前には長く大きなかいば桶がありました。家の裏には泉水があって、その周りにはグミの木やサンショウの木がたくさん植えられていました。
庭の花は只見より色鮮やかで、奥の蔵の周りに生えていたフキノトウもモッコリとしていましたし、アケビも色つやがよく、大きかった気がします。
坪山には稲荷様が大事に祀られ、子どもが腰かけるにはちょうどいい石がいくつか並んでいました。
馬屋を通り抜けると玄関、左側はトイレ、そして、ニワと呼ばれる広い作業場があって、その一段高いところが囲炉裏のある居間になっており、柱には電話も据えられてありました。
赤黒い板戸の奥の座敷は仏間でもあり、私たち親子の寝る場所にもなりました。叔父夫婦の部屋はその隣、祖母と母の妹が寝ていたところは中門で、その上には外から出入りできる二階があって、オミツさんという産婆さんが間借りをしていました。
ニワの奥は水屋(ミンジャ)で、沢からの水が台所の流しに溢れていました。
祖母は箱膳で食事を摂っていましたが、只見に移ってからもしばらくはこの箱膳を使っていました。
何となく明るく、いつもより賑やかな日だった気がするので、母のすぐ上の兄の祝言の日だったかもしれません。水屋の流しに蹲って何かしていた叔母さんが、「ほらっ」と、いきなり真っ白な生大根の輪切りの上に生味噌を載せて差し出してくれました。その瑞々しい大根の美味しかったこと、美味しかったこと。
白い割烹着を付けたおばさんのふくよかな笑顔と一緒に、今も目の前に蘇ります。
【初めてのおつかい】
只見から田子倉に向かって行くと祖母の家の手前、左側の道下に、日用雑貨や食品を売っ
ていたシマ姉のお店がありました。当時のお店はどこもそうでしたが、シマ姉はいつも店頭に居るわけではなく、人の声で出てきてくれます。
その日、何か買い物を頼まれた私は、お金を握りしめてシマ姉のお店に一人で出かけましたが、お店の引き戸の前でとても困ってしまいました。
「また来ました」「また来ましょ」という挨拶の言葉の、どちらが行った時の言葉で、どちらが帰る時の言葉か思い出せず、すっかり混乱してしまったのです。しばらく迷った挙句、結局「また来ましょ」と、帰る時の言葉でお店に入ってしまいました。
その時、出てきたシマ姉に間違いを指摘されたのか、あるいは笑われたのかどうかも覚えてはいないのですが、私の初めての「恥」の記憶になってしまいました。
【ばあちゃんの涙】

田子倉ダム建設工事は昭和二十九年に着工され、三十五年に竣工しました。私の小学校入学は昭和三十年、卒業が三十六年ですから、私の小学校時代は正にダム一色と言ってもよさそうです。
この入学の年に、田子倉の神社近くにあった分教場は廃止され、田子倉からの子どもたちも本校での入学となり、あの時代には珍しくスカートをはいて入学式に来たハイカラな子もいました。
村には補償金による立派な家が立ち並び、クラスには他所からの転入生も大勢いて、授業参観日には、社宅の子と呼ばれた親たちの目も光っていました。また、一部の人だったと思いますが、お誕生会にも招待されていました。
世界大ダム会議出席者の肌の色が違う大勢の人々を、私たちは様々な国の国旗を振って沿道で迎え、握手してもらったりしました。
ダムのための専用鉄道敷設の余波を受けて、私の家も新しくなりました。
東洋一のダムができるというのですから、村にはいろんな人が行き交い、食料品屋さんも呉服屋さんも電気屋さんも大賑わい。活気があって、子どもの目には良いことづくめと思える日々でした。
そんな秋も深まったある日、田子倉が水に沈むというので、ダム会社がバスを仕立ててくれたのでしょう、地権者でもない私も、なぜか祖母や従兄と一緒に賑やかにバスに乗り込み、田子倉から移築された若宮八幡宮近くの、今は観光施設がある見晴らしのいい場所から、田子倉の最後の村の姿を見下ろしていました。
その時のことです。
小柄な体にきちんと着物を着て立っていた祖母が、静かに震えながら泣いているのを見てしまったのです。思えばそれまで働きずくめに働き、昭和二十七年に祖父を亡くしたばかりの祖母はまだ六十代でした。突然、御殿のような家に住んでも、きれいにしておきたい嫁に嫌がられながら、家の片隅でお蚕さんを飼っていましたし、人に借りてまで近くに畑を耕していたのです。
今になれば、その時の祖母の涙が痛いほどわかります。思い出す度に胸が締め付けられるのです。