【風・奥会津⑦】風になった人~写真記録者・竹島善一氏 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【風・奥会津⑦】風になった人~写真記録者・竹島善一氏 NEW

2025.10.15

遠藤 由美子(えんどうゆみこ)

 かすかな稲穂の香りを運ぶ風が、南から吹いてくる。
 風は記憶の断片であり、その糸口から記憶をよみがえらせる発火装置でもあるようだ。

 そんな風を体に纏って神出鬼没する人がいた。竹島善一氏。
 控えめに訪(おとな)いを告げ、奥会津の地を踏んだ喜びを満面の笑みで表現して、無沙汰の隙間を埋めるように話し続け、いつの間にか消える。常のことだった。
 中折れ帽にジャケット、ハイネックのシャツという出で立ちは、半世紀ほど前に出会ったときとまるで変わらない。歯切れのいい江戸弁を聞かなければ、まわりよりもわずかに濃い空気が動いているに過ぎないというほど、周囲を侵さない人だ。

 東京から奥会津に通うこと半世紀余り。生業とする老舗の鰻屋の定休日には、毎週のように奥会津の各地に立ってカメラのシャッターを切り続けた。そしていつの間にかそこに吹く風を記憶し、ついに風と同化してしまった人である。
 わたしはひそかに、彼の人を「南風」と呼んでいた。南風は北に向かって吹くが、目指す北にはいつも雪の残像とその棲家があり、いのちが辿り着く異界もあるような気がするからだ。
 彼が撮った写真からは現実の音が聴こえない。響いてくるのは、記憶の彼方で純化されたエコー。この世ならざる場所からのさまざまな音は、時を経るごとに鮮明さを増してくる。「南風」にいっとき心を込めて見つめられた情景たちは、慟哭や安らぎの心象を閉じ込めて永遠へと繋がっている。
 今、優に二万枚を超える六つ切りのモノクロ写真が手元にある。その中の数百葉に彼の呟きを添え、何冊かの写文集を作った。本を開けば風が吹く。貴重な記録であるという思いは変わらないが、実は風景の中に潜んでいる風が、封印された記憶を蘇らせ、失ったものの在り処に誘おうとしているのではないか。それは「南風」の巧まざる仕業だったのかもしれない。
 過ぐる日、彼の人から本が贈られてきた。
 『風に薔薇がそよぐように』という小さな変形の本は、亡くなった仏文学者で詩人の宇佐見英治氏を追悼して、画家の妹さんの絵と宇佐見氏の文章とを絡ませて編んだ私家本だった。彼の人の交友関係には驚かされるが、宇佐見氏もまた、晩年まで彼が親交を深めた方だった。

 ~眼に見えるものをとおして、眼に見えないものを見ること~
 という短い一文がある。
 風が風を呼んで互いに永遠を見上げているような、形を結ばない風景を思った。「南風」のまなざしには、この小さな本のエッセンスと繋がるものが潜んでいるような気がした。
 「南風」の短髪が真っ白くなり、気がつくと濃い空気が流れる奥会津への訪いは月に一度になっても、耕地整理もされていない山間の小さな田が気になったようだ。奥会津の津々浦々まで知り尽くした彼には、そこでの営みが我がことのように気がかりだったのだ。名も知らぬまま家族のように懇意になった方々へ、かつて撮り貯めた写真を贈って歩く行脚の道行きを終え、ご子息の車に人工呼吸器を携えて「これが最後の奥会津だろう」と訪ねてくれた昨年三月、その四か月後には泉下に魂を移した。
 彼の人は今、風になって奥会津を巡っている。風の中に立つと、あのべらんめぇが聴こえる。

月刊会津嶺 2025年10月号【風・奥会津】より一部変更の上転載