【風・奥会津⑥】青い目の人形 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

【風・奥会津⑥】青い目の人形 NEW

2025.09.15

鈴木 サナエ(すずきさなえ)

 只見には時々奇跡の風が吹く。
 最初に出会った奇跡は、「青い目の人形」だった。もう随分昔のことになるが、只見小学生だった私は、高学年になって掃除当番で校長室に入ると、本棚の上のガラスケースに、古ぼけた西洋人形が飾ってあるのに気が付いた。目がぱっちりしていて可愛いのだけれど、衣装は色あせており、古い木造の校舎の校長室は薄暗くて、少し気味悪く感じた。
 これが、かの有名な渋沢栄一も関わっているという「青い目の人形」で、日米の親善に尽くした後、太平洋戦争の受難を生き延びた人形だと知ったのは、私が母校である只見小学校のPTAの会員になり、当時の校長先生にお話を伺った時だった。

 1918年、第一次世界大戦が終わり、1920年代になると日本は関東大震災等の影響により深刻な経済不況に陥った。その混乱の最中、追い打ちをかけるように、アメリカでは1924年に排日移民法が成立し、日米間の状況はどんどん悪化していった時代だった。しかしそんな中でも、アメリカでは1922年に、子供たちに平和と友情の精神を育てていこうと、「世界児童親善会」を設立していた。この会の設立者であるギューリック氏は長く日本の大学で教鞭をとった宣教師でもあり、大の親日家だったが、あまりに日本贔屓で、スパイ容疑をかけられたりもしたという。彼は、当時大流行した童謡の「青い目の人形」や日本の「ひな人形」「五月人形」等の伝統的な人形文化に注目して、人形による日米交流を思いつき、渋沢栄一に提案した。渋沢はこれを受け「日本国際親善会」を立ち上げ、1927年、文部省や外務省等々を巻き込み、アメリカの子供たちの手紙やパスポートまで携えた人形たちの大歓迎会が行われた。勿論、わずかながら、お返しの日本人形もアメリカに送られたそうだ。
 そのようにして大歓迎された12,739体もの人形が、当時、台湾や朝鮮を含む全国の幼稚園、小学校等に配られた。その中で、福島県に配られた323体の内の一つが只見の小学校にもやってきたのだった。

 人形は「メリーちゃん」と名付けられたが、太平洋戦争が始まり、1943年、「青い目の人形」は敵国のものだからと、処分が言い渡される。全国に送られた多くの人形が焼き尽くされたり、中には竹やりで突かれたりもしたという。ところが只見の小学校では、心ある数人の先生方が「人形に罪はない」と考え、あるいは反戦の気持ちもあったのかも知れず、小学校の近くの先生の家に匿われ、「処分した」と報告された。危うく難を逃れたメリーちゃんは、全国で生き延びた300体余りの中の一つとなった。
 このようにして救われたメリーちゃんは、おそらく、かなり前に綺麗に衣装替えされ、新しい只見小学校の正面玄関に大事に飾られていたが、数年前から、町の施設である「ものと暮らしのミュージアム」に移転され、二階の展示室の正面に大切に飾られている。それは、当時の政府に抗っても、親善の任を負ってはるばる海を越えてきた人形を密かに守った人たちの、あたたかな心の証である。

会津嶺9月号【風・奥会津】より転載