渡辺 紀子(わたなべのりこ)
あれは私が中学一年の夏だった。バレーボールの部活があり、校庭で練習を始めて間もなくの時だったような気がする。真夏の日差しというよりは薄曇りの空の色を覚えている。
突然、一人の先生が校舎から校庭に飛び出してきた。
「紀子、本名のばあちゃんの家が火事になってるらしいぞ。すぐに帰れ!」
この後、自分がどこに向かったのか、自宅なのか本名の祖母の家なのか、記憶は全くない。その日の記憶は、まるでスライドのようにコマ切れの映像が三つ残っているだけだ。古い茅葺の建物が見事に無くなり、後ろの家が見渡せるようになってしまった妙な光景。燃えた家の前で、腕組みをして何か話し合っている男の人たちの後ろ姿。行きかう女の人たち。このシーンしか浮かばない。きっとこれらの場面には様々な音もあったはずなのに、私の記憶に音は全くない。その切り取られた一瞬だけが刻まれている。
サキノにとっては生まれ育った家のこと、どんなにか溢れる思いがあったことだろう。
「火事のことか?あんまりオレは覚えてねぇなぁ。漏電からそうなっちまっただが、古いウチだったから何ともしょうがねぇもな。まぁ、おがぁもさすけなかったし、よそ様に迷惑かけねぇで済んだから良かったと思うしかねぇ」
嫁いだ家が水害で流された8年後のこと、起きてしまった災難には必ず「これから」という続きが待っている。嘆き悲しんでばかりはいられないことを、身を持って思い知らされたサキノゆえの言葉なのかもしれない。でも、少し経った頃、こんな言葉も呟くのだった。
「したが、やっぱおがぁは、いっつものまんまだったなぁ。毅然として、ひとっつも取り乱すこともねぇ。あんな一大事が起こっても、腹が据わった人ってはこうゆうことなんだと思ったもんだっけ」と。
そんな母(ワサ)の姿を見て、サキノもうろたえてなぞいられないと心を強くしたに違いない。
何か不慮の災難が起こった時、各村々には助け合いの取り決めがあるものだった。その取り決めは時代によって中身を変えていったのだと思われるが、本名の青柳靖美さん(82歳)より、こんな話を伺った。
「いつの時代の取り決めだかはっきりは分かんねぇが、家の親父から、火事が起きた時は村から30万出すことになってんだ、って聞いたことがあったなぁ。かなり前の話だから、ちょうどワサばぁの火事の頃もその位だったのかもしれねぇぞ。当時の30万はまぁ少しは足しになる金額だったかもな。本名は本名杉があって財産区なんて持つ村だから、他の村よりはそういう時の援助も大きかったかもしれねぇ。村によっては金でなく当座の仮のウチ建てる材木提供するとか、村々で色々あったようだぞ」と。
そうした援助の話も頂いてはいたようだ。サキノがこう語る。
「村の援助の話もあったが、村に迷惑も掛けられねぇべって、福島の兄にゃと東京の姉で相談したようだった。何とか我が達でやってみんべぇってな。兄にゃは、いずれは本名に帰って来る考えでいたから、何でかんで新しいウチは建ててぇって思ってた。まずはばぁがすぐ住む仮小屋を建てることから始まったのや」と。
東京の義兄は大工で工務店を営んでいた。そんなこともあり、仮のプレハブ小屋はたちまち脇に建てられたのだった。
「オレは銭もねぇから大した何の手伝いも出来なかったな」
サキノが語るが、私はたった一つだけサキノから言いつけられたことがある。
「夏休みの間、にしは本名ばぁのとこで泊まってろな」と。
言われるままに、夏休み中ずっと、プレハブ小屋での祖母との二人暮らしが始まった。そこには、祖母が唯一頼んで運び出したという仏壇だけが置いてあった。仏壇は火の中から運び出した痕跡で、傷と煤にまみれていた。祖母は確かにいつも通りのばぁだった。毎日、狭い空間に色んな人が顔を出してくださり、祖母を慰め励ましている。でも、当の祖母は弱音を吐くこともなく、おろおろすることもなく、逆に相手のばぁが泣いていたりする場面すらあった。何を食べていたのか、どう過ごしていたのか、それもまた記憶がない。ただいつも通りの祖母とよく見慣れたばぁたちの姿、それだけが映像として残っている。あまりにいつも通りの祖母を前に、何を助けるでもなくそこに居る自分に不思議な思いすら感じる日々だった。
夏休みが終わり家に戻った私は、サキノに訊いてみた。
「ばあやは全然大丈夫で、大した手伝いもしなかったけど、何で行ってろって言ったの?」と。
「まさかとは思うが、ばぁやが一人になって何か変な気でも起こしたら大変だべ。にしが居たら、そんな気起こさねぇはずだと思ってや」
本当は心配でたまらないサキノは、母のそばに寄り添うことは叶わない。それなら、せめてこの子をそばに…。その時のサキノが母に出来ることがそれだったのだろう。
「そういえば、火事のあった年の夏休みは、ばあやと二人のプレハブ生活で終わったんだよなぁ」と語る私に、「そうだったっけか?何だか忘れっちまったな~」と答えるサキノ。
本当に忘れているのだろうか。さもない振りを装っているのだろうか。また上手くいなされてしまったのかもしれない。