渡辺 紀子(わたなべのりこ)
私には、サキノからも紀由からも言われることなく終わった言葉がある。それは“勉強しろ”という言葉だ。どんなに思い出しても一度も言われた記憶がない。普通の親ならば、たいがい一度は口にする場面があるはずの言葉ではないかと思う。こう書くとそんな言葉を掛ける必要もないほど自発的に勉強していたから?などと思われがちだが、それは全く違う。サキノたちにとって勉強よりも、して欲しいことがあったから、単純にそれだけのことだ。
その一方で数えきれないほど言われ続けた言葉がある。それは“手伝え!”という言葉だ。大げさではなく多分一番言われた言葉のような気がする。旅館という環境の中で、子どもでも出来る仕事はいくらでもある。スリッパ並べ、座布団並べ、料理の簡単な盛り付け、掃除や布団敷きの時の小間使い、箸袋に箸を入れる、あれを持って来い、これを持って来い…。小学校も高学年になるとお膳運びも安定してくるもので、その頃から座敷に上がり、お客様の前にも出るようになった。とにかく日々サキノたちはバタバタと動き回っている。それを見ていると手伝わざるを得なかった。旅館に生まれるとはそういうものだ、と思い込んでしまっていたのだろう。
教育ママでも教育パパでもない親の元に育ち、塾も1軒もない田舎にあっては、成長に伴って生じる進学問題も親子で語られたことはなかった。一家に初めて選択肢が発生したのが、私の高校進学の時だった。本人は何の迷いもなく町内にある県立高校に行くつもりでいた。三年生の夏になる頃だっただろうか、顔見知りの大人たちから盛んに声を掛けられ始めた。
「学校はどこさ行くだ?」「若松さは行かねぇのか?」「頑張って若松行ってみたらどうや?」
何だか日に日に騒がしくなってくるようだった。その辺りから我が家の進学問題が動き始めたような気がする。親切な方々があれこれとサキノたちに指南し始めていたのだろうが、当の本人に対しての働き掛けは全く無いままだった。
まだ受験先が地元の高校のままだった頃、こんな出来事があった。
サキノの旅館で地元の人たちの宴会があり、私も当然宴会の場を手伝っていた時のことだ。ある酔った人に呼び止められ、こんな言葉を浴びせかけられた。
「何だ、にしゃの母ちゃんは大した気して、女(おなご)のにしのとこ若松の学校さ出す考えしてんだとな!女(おなご)なんて学校の勉強なんて出来なくていいだぞ。やめろ、やめろ」と。
何としても若松に行きたいと思っていた訳でもなかったが、この言葉には心底驚いた。当然、そのことはサキノに報告した。
その出来事からサキノも胸に秘めた思いを決意に変えたのかもしれない。
「若松の塾に一週間だけ行ってみねぇか?○○さんとこの、○○ちゃんが行ってたとこなだと。まぁ、そこの先生がなんて言いやっか。無理だからやめろなのか、頑張って挑戦してみろなのか、行って様子みてもらってみんべ」
ある日突然、サキノがこんなことを言ってきた。提案に従い三年生の冬休み、若松の親戚の家に一週間泊めてもらい、生まれて初めての塾というところへ通ってみた。そして私の志望校がギリギリに地元から若松に変わったのだった。
「おらは、なんぼ貧乏して育っても、教育にかける銭はいたましくねぇ(もったいなくない)って思ってた。何とか出られる頭あんなら出してやりてぇなぁとは思ってた。したが、嫁がそぉだこと先には言うよねぇ。お父さんが言いだしてくれたらと思ってたが、はぁ待ちきれねぇ。オレの子の教育のこと他人にあぁだこと言われて、我慢出来ねぇ!銭もねぇくせに子めらの教育なんて見栄張って何やってんだ!なんて世間になんぼ思われたって、痛くもかゆくもねぇ。おらはやんぞ!って思ったのや」
サキノがその酔っぱらいのそばにいて、その言葉を耳にしていたら、間違いなく食って掛かっていたことだろう。
「オレの子に教育受けさせて、しなた(貴方)に何か迷惑でも掛けんのかよ!そうでなかったら構わねぇでくんつぇ!」と。
サキノが最近ぽろりと語ったことがある。
「おらだって行けんだら上の学校行きたかったわなぁ。したが、オレなんかよりずっと行きたかったあんにゃが、大学諦めて警察になったべ。それ見てたら、あの当時高校出してもらえただけでもありがてぇと思うしかなかったのや」と。
大黒柱になるはずの父もいない。食べていくのに精一杯な環境で、こんな願いは口に出すことすら出来なかったのだろう。“勉強なんか、からっきしダメや”と豪語するサキノも、本当は勉強したかった。教育を大切に思う気持ちは、本当は自分自身の願いでもあったに違いない。学校での勉強を社会での勉強に置き換える。サキノは、そう腹を据えたのだと思う。きかんぼの決意は、いつも微塵も揺るがない。その姿を見続けてきたからこそ、そう思えてならないのだ。