鈴木 サナエ(すずきさなえ)
只見町は今、「自然首都」を謳っているが、かつては「ダムの町」とも呼んでいた。ある雑誌に「田子倉専用鉄道」の言葉があり、私の実家は正にこの「専用鉄道」が敷設されることによって引っ越しさせられた経緯があり、なつかしさが込み上げた。
実家は、昭和30年まで過ごした田ノ口集落だったが、翌年の31年には、私達一家は、母の実家へ仮住まいして、旧家を取り壊しているから、余程急な話だったのかもしれない。湖底に沈んだ田子倉とは違って、補償金、代替地を求めるのに精一杯と聞かされていた。
ところが、昭和30年、私達一家は東京見物に行っている。この時の掛りが、補償金の一部だったと、最近になって年上の従兄弟から聞いた。家族4人と父の母との5人で大旅行するお金などないはずなのに、という私の長年の疑問が、この時ようやく解けた。
昭和30年の夏の盛り、父は30代、母は20代、弟は5歳、祖母は60代、私は7歳で小学校の一年生だった。父は海軍であったから、横須賀に住んでいたこともあって、多少は都会の生活は知っていても、私達にとっては初めての大都会。何もかも初めてづくしの懐かしい記憶だ。
父は白い半袖シャツにズボン、母は白いブラウスに紺のスカート、弟は白いシャツに半ズボン、私はワンピースに白いサンダル、ちょっとお洒落な祖母はひっつめ髪にワンピースと、細かい紺の模様の浴衣の日があったけれど、足元は下駄だったような気がする。
途中まで父の勤める会社の、私達は「ランドルバー」と呼んでいた外車のジープに乗せてもらってバスに乗り継ぎ、多分電車にも乗って、日光を見物した。日光東照宮と杉並木、それになぜか左甚五郎と「見猿、聞か猿、言わ猿」の言葉が記憶に残っている。ついで浅草では父の弟が案内役で出迎えてくれた。宿ではまだ珍しかったテレビがあったのだが、父は宿賃倹約のため、警察官の弟の宿舎に行ってしまったので、今でいうロビーらしきところに置かれているテレビは、気後れしてみることができなかった。初めて食べたポテトサラダが美味しかったし、夜は洗濯物干場のようなところに行って見せてもらった墨田川の花火は、とても豪華で、華やかに夜空を明るくしていた。それでも、翌朝、父と伯父の顔を見た時は、泣きたいほどにほっとした。
次の日、浅草の観音様へ行く途中、初めてみる信号に弟と私は、信号が青になると、焦って走って道路を横断した。道幅は、今よりずっと狭かった気がする。お洒落な若い伯父は、田舎丸出しの私達が恥ずかしかったのだろう、二人に「走るな。」と注意するのだが、どうしても走らないではいられなかった。肝心の観音様は少しも覚えていないが、踏みつぶしそうになるほどたくさんの鳩がいた。そして、参道の人ごみの中で、一様に軍隊の帽子を被り、白い着物の着流し姿で、松葉づえをついている人、アコーディオンを鳴らす人たちが沢山いたのが、何よりも目に焼き付いてしまった。父が、戦争で怪我をした人たちだ、と教えてくれたが、何処か物悲しく、子供心には、駅などに居る浮浪者達と同じで、無表情の顔が気味悪く、ちょっと怖かった。それにしても、日本の高度成長を前にして、あの人達は、いったい、いつ、何処に行ってしまったのだろうか。
参道には沢山の出店が出ていた。その中の一つの店には、机の上に小さな神社があり、お賽銭を払うと小鳥がおみくじを口にくわえて持ってくる、というのにすっかり魅せられた。夢中になりすぎたのか、父がそこに大事なカバンを忘れて移動してしまった。気づいたのが結構遅かったのだが、警察官の伯父が警察署に電話をすると、ちゃんと届いていて、みんなで安堵した。上野動物園では何故か「大蛇とカバが居ない」、と言い訳の張り紙を見た。暑くて猿やライオン、キリンも私達と同じように、くたびれているように見えたし、なんとも匂いがたまらなかった。ハトバスにも乗って、多分、今は無くなってしまった松竹歌劇団で観劇したのだが、他の人の指定席に座って、ひんしゅくを買ってしまった。ネットのストッキングを履いて、脚を持ち上げて踊る華やかなレビューは、子供には何ともまぶしすぎた。初めてざるそばを食べて、二段重ねの大盛りでびっくりしたが、何のことはない、ほとんど上げ底だった。他に皇居の前で記念の集合写真を撮っているから、都内を巡ったのだろうが、あまり覚えてはいない。
浅草に二泊して、次の日は鎌倉、逗子、江の島とめぐった。鎌倉では「大仏様」と「八幡様」という言葉は覚えているのだが、あの、どでかい大仏様が仏さまだという認識は全くなかった気がする。その後の逗子の海岸での水遊びは、何と言ってもこの旅の最も印象に残る思い出となった。水着などは勿論持っていないから、最初はワンピースの裾を両手で持ち上げて遊んでいたが、そのうちパンツの中に押し込んで、両手をフリーにして遊んだ。水平線なんていう言葉も知らなかったが、広い海がずっとずっと遠くまで続いていた。何度も何度も静かに打ち寄せ、また帰っていく波の音、細かな砂が足裏をくすぐる感覚、ただただ、楽しく水と戯れた。江の島の橋の近くはまた、ものすごい人ごみで、迷子になりかけもした。「あれ?」と一瞬、恐怖を感じた瞬間、母が走ってきて、手を握ってくれた。長い木の橋を渡って、左手の小さな堀の中に何匹ものザリガニを見つけて、坂を登って宿についた。宿は、父の会社が保養所にしているところで、今でいう安い民泊のようなものだったと思う。隣の部屋に学生さん達がいて、私達は可愛がってもらった。「坊や、何処から来たの。田舎?」との問いに弟は「いながんなんねえ(田舎ではない)。只見だ。」と答えたのも、後々の語り草になった。この旅行を全く覚えていないその弟は、今、湘南ナンバーの車に乗っているのが、なんとも可笑しい。
最終日はまた東京に戻り、大丸デパートで隣近所や親戚から頂いた餞別のお返しのお土産を買った。ガラスの瓶に入った、色とりどりの飴っぽいお菓子が、美しく都会的に見えた。とりすましたエレベーターガールのいるエレベーターに乗って行く、屋上の遊園地も、子供にはうってつけで、楽しかった。
帰りは会津若松の母方の伯父さんの家に泊ってお世話になった。伯父さんはまだ借り屋住まいだったから、五人もしてお世話になるには、狭かっただろうし、迷惑だったろうが、伯父さんも伯母さんもにこやかに迎えてくれた。ここでまた、初めて銭湯を経験させてもらっている。
後年、家族で時々、この旅行の話をしたが、父がなぜこのような大旅行に踏み切ったのかは聞かずじまいに終わった。あの夏の日々も、今年のように暑かった。きっと、ちょっとハイカラな父は、私達にも都会の風を感じさせたかったのだろう。そんな父の思いに、今は感謝しかない。