からむし焼の季節 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

からむし焼の季節

2025.06.01

菅家 洋子(かんけようこ)

「からむし焼の季節となりました」
 5月半ばの頃、昭和村ではこんな村内放送が流れる。からむしとは、昭和村で江戸時代から栽培が続く繊維植物で、春になって出てきた芽を一度焼く作業のことを「からむし焼」という。これから村内のあちらこちらで始まる「からむし焼」、火の扱いに注意を促す内容の放送は、昭和村ならでは、この季節ならではの風物詩と言えるかもしれない。
 我が家にも、からむしの畑がある。積雪量の多かった冬、雪解けは遅れ、他の植物と同様にからむしの成長も遅れていた。二十四節気で小満の日、5月21日ころが「からむし焼」の目安とされている。野尻川沿いにあるからむし畑は、おおむねこの頃に焼いているようだった。焼き終わって藁が敷かれた畑を見て、「あぁ、もう焼いたんだな」と持ち主を想像したりする。私が暮らしている大岐集落は、昭和村の役場からさらに250メートル標高が高い場所にあるので、やはり火入れは、もう少し後になる。花農家の仕事にも追われながら、合間にからむし畑の草取りを済ませた。

「今日の夕方焼くか」
 からむし焼の日取りを決めるのは、いつも義父のセイイチさんだ。今年は小満から一週間後の5月28日に焼くことになった。まず、畑に被さっている草をカマで搔き立てて風を入れ乾燥させておき、その上に燃え草となるカヤを敷く。セイイチさんが、延焼防止のためトタンで畑を囲ってくれた。今年はやけに頑丈にしてあり、聞くとトタンは焼いた後もこのままにしておくという。古いやり方ではカヤで垣を結い、我が家では青いネットで畑を囲う。セイイチさんの言葉に一瞬不安になるけれど、特にカラムシに関しては、セイイチさんの決定に口を挟む隙はない。ここ数年、イノシシが現れるようになったので、その対策も兼ねているのかもしれない。いつも教科書通りではないのがセイイチさん。 

 去年の春は、カラムシの芽が強い霜にあたって真っ黒になった。そのとき、これは芽を焼いたのと同じ作用になるのではないか、強い霜に当たったカラムシを焼けば根が傷むのではないか、ということで「焼かねえで、いいんでねえか」となった。はじめての、からむし焼のない年だった。
 繊維を取り出すときに使うヒキイタをプラスチックで作ってみたり、「伝統」にとらわれない、いつも自分で考えて決め、行動するセイイチさんはおもしろい。

「火ぃつけっと風が吹くだ」
 セイイチさんがいつもつぶやく言葉。花の水やりで使う動力噴霧器で、火の粉が飛んでも消えるよう、周囲に水を撒いておく。畑に火を入れるのは、夫ヒロアキさんとこれも毎年決まっている。オガラを手に風下から火をつけると、炎は勢いよく燃え上がった。焼けたところから水をかけていく。熱さで根が傷まないよう、そして肥料となる灰が飛ばないようにする。動力噴霧器はセイイチさんが操作する。私はセイイチさんの歩みに合わせて、ホースを持って出したり引っ込めたりする係。いつか動力噴霧器の係になるのかなと思いながら、まだその役目は回ってこない。ぱちぱちと音を立てながら、畑を歩くように火が渡っていく。焼け残りのないように、うまく焼けますようにと眺める。焼き終わるまで、約20分。きれいに焼けて、ほっとした。

 セイイチさんは動力噴霧器を片付け、帰っていった。今年も一緒にからむし焼ができてよかった、と思う。やはりからむしの仕事には、セイイチさんがいないと。元気すぎて忘れそうになるけれど、御年93歳のセイイチさん、一緒に作業できる一年一年が、貴重な時間だ。その判断と手に頼っているところも大きいけれど、セイイチさんの存在なしにからむしのことを行なわなくてはいけなくなったら、それはなんて味気なく、つまらないだろうと思う。なにかが違う。決定的に違ってくる。
 ヒロアキさんが肥料を撒き、私が藁を敷いて、今年のからむし焼は無事に終了した。

 次は、夏のからむし引き。セイイチさんに、刈り取りと皮剥ぎをやってもらって、私がそれを引いて繊維を取り出す。花の出荷も盛りのなか、どこまでからむしに触れるだろうか。できるかなぁと不安な気持ちもあるけれど、やっぱり楽しみだ。