【きかんぼサキ第2部】記憶も奪った水害 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ第2部】記憶も奪った水害

2024.12.01

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 「はぁ、ここにはいられねぇな」
 目の前に広がる光景に、サキノはそう思ったという。昭和44年の水害は、きかんぼサキノにすらそう思わせる程のものだった。

 突然襲った豪雨災害、その時の記憶を生々しいものとして記憶している方々がいた。角田コマノさん(96歳)の弟の家は、サキノが嫁いだ旅館の川向いにあった。
「あの年は6月の頃から何だか雨が降る年だった。その日(8月12日)は前の晩からの大雨で、朝にはたい騒ぎ(大騒ぎ)になってた。おら家の部落は高いとこにあっからいいが、与四郎(弟)のとこは危ねぇとなって8時頃だったか手伝いに行ったのや。とにかく下のもの上(2階)さ持ち上げんべぇとなって夢中でやってた。やっと大体上げ終わって、ちっと一服すんべって時だった。何だか川向いからヤイヤイ声がする。窓から見たら、向いの豊次郎さんの家流されるとこだった。そっちも危ねぇぞ!って騒いでくれてたんだべ。それから慌ててオレ達も逃げる騒ぎや。何が何だか分かんねぇが、繋げられたロープ頼りに逃げ始めた。慌てて長靴履いたまま出て、水入って早く歩けなくて危なかった。あん時ちっとでも逃げ出すの遅れたら大変なことになってたべな。夕方になったら天道様なんて出てきて、水も一気に引いた。水引いた後、そこらに鮎が一杯上がってて、鮎拾いしたの覚えてるなぁ。与四郎のとこは新しく建てた家だったから流されなくて済んだが、辺りはまるっきり様子が変わっちまった」
 押部キヨさん(98歳)の住む八町は、サキノの旅館のすぐ上にある集落だった。
「今年はへだな(嫌な)雨が降るなぁなんて思ってた年だった。その日の朝になったら、村中で下の湯のとこに助け行くんなんねぇって話になってた。オレは恵比寿屋(サキノの旅館)の店の方の手伝いにまわった。みんなで店の道具を表(外)に出しあげたなぁと思った、その時だった。店が崩れてきて、みるみるうちに流されていっちまった。店の土台に流木やらがぶつかって折れたようだった(店は崖のような所に建ち、3階部分が店舗。その下は長い鉄骨の土台だった)。ほんと危機一髪っては、ああいうこと言うんだべな。何ほどおっかなかったぞ」

 あまりに突然やってきて、数時間後には深い傷跡だけ残して去っていった、そんな水害だった。
 サキノは旅館の方の作業をやっていたに違いないが、家族だけでなく宿泊のお客様もいた中で、一体どうしていたのだろう。
「何ほど大変だった。ここにはいられねぇと思った」
 サキノはそんな言葉を呟くだけだった。その渦中の詳細な記憶は殆ど思い出せないという。

「ただ、あの時泊まってた周東先生(※1)と学生さんたちが仏様を運び上げてくれたっけ。あれは有難かったなぁ」
 サキノが語った唯一の具体的な記憶。当時、仏壇があったのは一番下の階だった。本来なら流されてしまっていただろう。水が引いた後に綺麗に残っていた仏壇を見た瞬間、大きな安堵が込み上げ、サキノの記憶に刻まれたのかもしれない。周東先生は、この後も金山町の遺跡の発掘に長く携わって下さっていた。後に先生との発掘調査を共にした菅家博昭さん(65歳)から、当時の話を伺えた。
「先生から水害の時の話は聞いています。あの時、家の人たちはとにかく忙しそうで、何か手伝おうにもとても話しかけられる状態ではなかった。そこで、自分なりに何が一番大事だろうと考えたら仏壇じゃないかなぁと思い、学生と一緒になって運び上げたんだ、そう話されてました」と。
我が家の仏様が助けられた陰には、こんな親身な方々の思いがあった。

 災害直後のサキノの脳裏には、どこかに移り住むことしか浮かんでこなかったという。家も流され、橋も流され、温泉も出なくなり、ここで元の生活に戻れるとは到底考えられなかった。今なら保険や様々な義援金など多少はあったのかもしれない。ただ、そうしたものもほとんどない時代、見通しを立てる術も見つからずにいたという。ところが、結局前に進まざるを得ないこととなっていく。
「あれらに商売辞めさせてはいらんにぇぞ!あんな宝の温泉守ってきたんだからな」
 町長はじめ近くの町会議員の方などが、再建へと銀行やらに掛け合って下さっていたのだろう。通常の面倒な手続き無しに融資の形が決まっていったのだという。
「色んな人が何とか頑張れ!って骨折ってくれてんのに、やんねぇわけいかねぇべ。温泉も本気になってみんなで掘り直してくれた。はぁ覚悟決めるしかねぇってなったのや」

 災害の記憶には沢山の奇跡と思いが溢れていた。でもこれはほんのひとかけら。きっと、もっと見えない沢山の思いに守られていたのだろう。その思いに応えるべく紀由とサキノは再建の道へ歩み始めるのだが、返済期間10年という条件で多額の融資を受けてのスタートであった。20代半ばでこの決断。きかんぼ魂はこうしてこの地で根を張っていくこととなる。

※1 周東一也氏は、卒論の調査で昭和34年会津に訪れ、昭和36年に只見川流域の調査を開始。継続して東京から調査に通う。金山町では、42年東中井今上遺跡、43年本名寺岡遺跡の発掘調査。40年に中川宮崎遺跡に出会い、42年から発掘。
水害当時、海城学園高校教諭として勤務の傍ら、夏休みを利用して学生を連れて発掘に訪れていた。令和5年、逝去。