渡辺 紀子(わたなべのりこ)
農家から旅館に嫁いだサキノにとって、結婚生活は仕事も生活もあらゆるものが初めてのことばかりだった。野良仕事は得意でも料理は家に居る母任せだったままに嫁いでしまい、旅館の料理に至っては全くゼロからのスタートだったという。それまで魚など触ったことも無い日常が、毎日魚を扱う生活へと変わる。
「ここのじーやはニシンの煮つけがうんと上手だっただよ」。
と、何人かに聞かされた。サキノが嫁に来る前は、ニシンをよく使っていたようだ。しかし、サキノが来た頃ニシンはほとんど使っていなかったという。
その代わり、当時よく提供していたのは鯉だった。鯉料理を楽しみにしていたお客様も多く、何としても習得しなくてはならない食材の一つだったという。ところが、誰もやり方を教えてくれる人はなく、仕事中は全く触れる機会すら与えられない。皆が寝静まってからが唯一の練習時間だった。運転免許を取得すると、鯉の購入はいつもサキノが会津坂下まで行くこととなった。ある程度の量を買ってきては家にある池に放し、その在庫が減ってくると買いに行く。その繰り返しだったという。
「あの頃は、鯉のうま煮・鯉のあらい・鯉こくなんていうのが、うんとご馳走だったのな。それをうまく出来るようになんなんねぇと思って、本気になってやったわい。まずは鯉のさばき方だが、誰も教えてくれねぇから昼間見てて頭に覚える。それを夜中一人でやってみる。生きて動いてるとこからだも、すぐにうまくなんて出来ねぇべ。何ほど練習したか分かんねぇわい。失敗したのは、投げる(捨てる)しかねぇ。こそっとやってんの朝になって知られたら大変だべ。前の川に何匹投げたか分かんねぇな」。
こうした料理との格闘を、人知れず一人夜な夜な繰り返していたのだという。
また、魚といえばアカハラ・鮎・カジカも欠かせない食材だったが、アカハラとカジカは一年中お客様に提供するものだった。
アカハラはアカハラ獲りの上手い人が売りに来る。鮎は夫・紀由が仲間たちとヤナをやっていて、主にそこで獲れたものを使う。カジカは、沢山の子供たちが持ち込んでくるものだった。
夏休みに入ると、サキノの家の前の川原が突然子供たちの声で大賑わいとなる。カジカ獲りの子供たちが朝からワイワイと集まるのだが、まだプールなど無い時代のこと、ここは魚獲りをしながら水遊びも出来る大切な場所だった。ここではカジカがよく獲れた。その頃は田んぼに農薬を使うこともなかったから、カジカは面白いほど獲れたようだった。箱眼鏡で突いたものを手製の腰に下げる袋に入れていく。それが一杯になると子供がやってくる。
「カジカ買ってくんつぇ!」
「どれどれ、なんぼくれぇいんだ?」。
サキノがのぞき込む。
「〇〇匹だ」「1匹1円だから、〇〇円な」。
このやり取りも最初のうちはまだいいのだが、何人もの子供たちが入れ代わり立ち代わりやってくる。そして、上手な子は獲れるたびに何度も来る。通算したら何百匹にもなっただろう。
子供たちがこれほど夢中になる。それは魅力的なご褒美があったから。ここでは、カジカを売って手にしたお金をすぐに使える店があった。サキノにとっての夏の子供のおやつは、トウモロコシ・キュウリ・スイカ…。それが紀由の店にはアイスキャンディーやキャラメルと、子供の喜ぶものが並ぶ。隣の煙草屋では、樽に入った黒砂糖が量り売りで売っている。子供たちはそれらの店で目を輝かせながら好みのものを選び買っていたのだろう。夏休みの間中この光景が毎日繰り広げられていたのだという。
子供たちが張り切って持ってきたカジカは、その場で焼かなくてはならなかった。ドラム缶を4つ並べ、その中で焼いていく。ちなみに魚を焼く際の串の刺し方、これもまたサキノが一人で練習していたものだった。子供が売りに来る時分になると、サキノがその対応にまわる。いつの間にかサキノの仕事となっていた。女中さんたちには昼休みがあっても、サキノは休むことなく魚を焼く。一つのドラム缶で焼けるのはせいぜい40匹位まで。一日に何百匹も焼いていかなくてはならないのだから、その作業は途方に暮れるものだった。
「今日は、はぁ、いらねぇぞ」。
一度はそう言ってみるのだが、
「買って貰えねぇの…」
しょんぼりする子供を見ると、やっぱりむぞうせぇ(可愛そう)と思い、結局全部買ってしまうのだった。子供たちにとっては愉快な夏休みだったのだろう。が、サキノにとっては終わりの見えない魚焼きの日々。こうして焼いておくことで一年中カジカを提供することが出来たのだから、大切な恵みの時期でもあった。でも、サキノは心の中でいつもこう叫んでいたという。
「カジカなんか、はぁ、いなくなれ!どっかさ行っちまえ!」と。
ひたすらカジカと向き合う夏。この奮闘の日々は、思いがけぬ出来事で突然幕を閉じる。昭和44年8月に起きた野尻川の氾濫(※)は、甚大な被害をもたらし、川の様相は一変した。旅館も大きな被害を被ったが、サキノと子供たちは、この災害を機に魚との格闘の場も失った。
「よっぱらだ(たくさんだ)と思ったが、子めらはめごかったな」。
その呟きはあたたかかった。
※ 昭和44年8月12日、金山町・昭和村を中心とする奥会津一帯の町村に集中豪雨が襲来し、局地的に甚大な被害を与えた。その被害総額は実に101億円に達した。(金山町は36億1千万円を超す)
金山町の被害は、死亡者8名、重傷者5名、住宅全壊流失22戸、住宅半壊流失14戸。サキノの家の周辺は、川を挟んで向かい合っていた2件の温泉旅館や橋、民家が被害を受け、河原に自噴していた温泉は土砂に埋もれてしまう。また、点在していた巨石はほとんど爆破され、護岸も整備されたことでその姿は大きく変わってしまった。
サキノの旅館と自宅も、全壊、半壊の被害に遭ってしまった。
『金山町史 下巻』より