渡辺 紀子(わたなべのりこ)
まだ雪の降らない頃だった。9月頃だっただろうか。サキノは幼い娘(私)を背負い、一人実家に帰る決意をした。家を出たのは夜も更けた10時頃だったようだ。夫・紀由に気付かれぬよう、眠った娘を背負い、ひっそりと抜け出したという。懐中電灯と必要最低限のものを持ち、夜道を歩き出す。ただただ母の元に帰りたかった。
何事にも耐えてきたはずのサキノが、なぜ、家を出る決意に至ったのか。しかし、サキノは決してその理由を明かさなかった。慣れない仕事の苦労や、お坊ちゃんすぎる紀由に耐えきれない。そんな理由でないことだけは、その頑なな目が語っていた。
とぼとぼと4キロ程歩き、川口の辺りまで来た時だった。遠くから異質なモーター音が聞こえて来た。サキノを追いかけて来た紀由のバイクの音だった。
「戻れ」。
「戻んねぇ」。
この言葉だけが何度か繰り返された。紀由は諦め、そこから引き返したという。
またしばらく歩き、西谷の村はずれにある地蔵様までたどり着いた頃だった。背中の娘が、いきなりワンワン泣き出した。
「泣かせたまま村に入ったら、村の人目覚ましっちまう。これは大変だと思って、そこで乳くれして寝付くまで休んでた。まぁ、村はずれだったから助かったのや」。
そうしてまた歩いて、やっと実家にたどり着いた頃には少し夜が明け始めていたという。玄関の厩(うまや)のところから母を呼んでみた。すぐに母は起きて来た。
「おら、はぁ、だめだから戻ってきた」。
「なんだべ。あっちから出さっちゃのか?」。
「そうでねぇ。オレが出て来ただ」。
「あっちから出さっちゃだら家に寄せられんが、わが(自分)で黙って出て来たのは寄せらんにぇ」。
母はそう言って、決して中に上げようとはしなかった。サキノは筵を敷いた厩で、ただ茫然と座っていることしか出来なかったという。
サキノの母の行動は早かった。当時、近所に村長をしている親戚の家があった。その家へすかさず相談にいったのだろう。厩で過ごした数時間後
「ほら、サキ乗ってええべ(行くべ)」。
村長さんが迎えに来てくれた。役場に出勤するジープに乗せられ、嫁ぎ先の玄関まで送られた。村長とサキノの母での打ち合わせがあったのだろう。お抱えの運転手がいる車中での村長さんは、里に泊まりに来た子を通勤のついでに乗せてあげる、という設定で話して下さっていた。実家を出る時、母は姿を見せなかった。
「家に寄せないという筋を通してたのもあんべぇが、それよりなにより、むぞぅさくて(可愛そうで)見送りなんて出来なかったんだべな」。
サキノは、その時の母親の気持ちは述懐したが、戻ることしかなかった自分の心境は語らなかった。
夜中に飛び出した嫁が、夜が明けるとともに村長車で帰宅。全く異様な展開だが、帰宅の際、家の人に会うことはなかったという。サキノはいつもより少し遅れて日常の朝に戻らざるを得なかった。
「誰一人何にも言わねぇのがかえって気持ち悪くて、オレはつら(顔)上げっとニワトリが何か喉につっかかった時のようで、1週間位は何にも食われなかったな」。
サキノの決死の行動は、母の機転により驚くほど一瞬の出来事となってしまう。紀由以外の家人が、サキノの家出に気付いていたものか否か、今となっては分からない。
私の記憶の中で、サキノが実家に泊まった姿を見た事がない。お盆であれば子供たちだけを送り届け、繁忙期の家業に戻る。何か用があり実家に帰っても、決して泊まらず戻る。結果、サキノと一緒に泊まった記憶は一度もない。忘れられない一夜がサキノに新たな決意を生み、この行動を貫いていたのだろうか。サキノはあの数時間の中で、抱えきれない程の感情を一人受け止める覚悟を決めたのかもしれない。