【きかんぼサキ第2部】痛くない注射 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ第2部】痛くない注射

2024.09.15

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 サキノの夫・紀由が営む商店は、様々な品を扱うよろずやだった。食料品は勿論だが、店に並べていた品物を聞くと、その当時の村の様子が垣間見えてくる。当時、取引先の卸屋の中に、会津若松から来る“山木屋”、坂下からは“広木薬局”という店があった。山木屋から仕入れていた品物といえば、主なものはゴム製品。長靴やら地下足袋、そしてゴム手袋…そういったものが多かったという。そして広木薬局からは、石鹼、洗剤、ガーゼ、包帯などを仕入れる。それらが沢山売れたという。やはり、電力関係の工事、道路や橋といった建設工事が、あちこちで行われている様子が透けて見えてくるようだ。需要があるものは出来るだけ取り揃える。そうしているうちに、よろずやとなっていったのだろう。
 サキノの住む集落からすぐ上がった所に、この野尻川沿いで唯一の医院があった。八町という集落にあった医院なので、皆からは“八町医者”と呼ばれ信頼厚いお医者様(押部孝哉氏)だった。
多くの人が語る思い出に、バイク姿の先生がよく登場する。サキノもこう語る。
「八町のお医者様は、たいしたバイクに乗ってやっただ。ここらにはねぇ、カッコいいバイク。今でも思い出すが、きれいな緑のバイクでいっつもトコトコトコトコ走っていやるもんだっけ」と。

自宅医院での診察は勿論だが、村内1か所と隣の昭和村1か所に出張所を設けていたので、とにかく往診に飛び回る日々を送られていたようだ。なので、多くの方にとってバイク姿の先生が印象深いのだろう。実は大変優秀な先生で、本来ならこんな僻地にいて下さる方ではなかったのに、生涯をこの地の医療に身を捧げて下さった。そのうえ、薬礼(診療報酬)を請求することは一度も無かった、と皆さんが語る。各家々では、米や野菜での礼、また支払い可能なだけの薄謝を盆・暮れに届けるのが常だったという。

 さて、紀由の店では月末になると、時折こんなやり取りが始まるのだった。
「サキ、お医者様のとこ行って、注射打ってきてくろぉ」。
そこで、サキノ
「何本打ってくっといいだよ?」。
「今日は1本だな」。
ときに、2本と言われることもあったという。このやり取りを終えると、サキノは一目散に八町へ向かう。そして先生の在宅を確認すると、ご本人にこっそり合図。診察室ではなく裏に廻り登場を待つ。そこへ先生が現れる。
「先生、申し訳ねぇが、注射を1本お願いします」と、サキノが告げると
「よし分かった」。
いつも先生はそう答え、サキノの願いを聞いて下さったという。

 サキノの言う注射とは、お金を借りることだった。1本が1万円、2本が2万円と決められていて、先生は嫌な顔ひとつせずサキノの願い通りの金額を渡して下さったという。月末は山木屋、広木薬局が必ず集金に来ることになっていた。その支払いがすんなり出来そうにない時、紀由が助けを求める先がお医者様だったのだ。サキノが嫁ぐ前は自分で行っていたものか、サキノが嫁いでからは完全にサキノの役目となっていた。そして返しに行く時だけは紀由が行っていたのだろう。一度も言いつけられたことは無い。行きやすい時は喜び勇んで行く。あまりに分かり易い人だ。
 さて、紀由とサキノの間で暗黙の取り決めがあった。紀由は亡くなるまで毎年近くの川で仲間とヤナを掛けていたのだが、そこで鮎が獲れたら何をさておきお医者様に届ける。これが二人の間での絶対欠かせない返礼だった。これは、お医者様が息子さんのいる白河に移られる年まで続けられていたという。

お医者様の孫に当たる、束原由美子さん(73歳)から当時の話を伺えた。
「私の小学生時代の夏休みは、ずっと八町で過ごしてました。毎朝起きると、玄関の前にトマト、ナス、夕顔、…なんて山ほどあって、不思議だなぁと。おばあちゃんから、これはおじいちゃんが診た人が持ってきてくれたものと聞かされました。おじいちゃんは昔の仙台医学専門学校を首席で卒業したものだから、官費でのドイツ留学が決まっていた。でも、お父さん(曾祖父)が大反対。医者のいない村の為に医者にしたのに、ここでやらないなんて絶対だめだ!と。おじいちゃんも欲の無い人で納得したようです。そんな人でも“俺は生涯でたった一度だけ請求したことがある。この人だけはタダにはしたくない!と思ったんだ”と。やっぱりその人は払わなかったようですが、どんなに無欲な人でも、人として感謝の心のない人には、そうしたくなかったのでしょうね。それから、私は鮎が大好きな子だったんですが、行くと必ず毎年食べさせてくれました。本当に美味しかった」と。
 医者としてこれほど地域に尽くして下さった先生に、紀由たちは別な形でも助けられていた。ご恩返しに思い立ったのが、真っ先に届ける鮎。そして、何十年後にお孫さんが語る思い出の中にも鮎が刻まれていた。記憶の糸を手繰った先に、思いがけない驚きが待っていることがある。時を超えても繋がる思いは、きっとあるのかもしれない。