渡辺 紀子(わたなべのりこ)
サキノが嫁に来てすぐのこと、舅がこんな告白をしてきたという。
「オレはな、監獄に入れられるとこだったんだぞ」と。
「何か悪いことしゃった(した)のかよ?」
サキノは驚き、尋ねずにはいられなかった。
舅の話によると、『酒あらため』と言って、役人が抜き打ちで調査に来ることがあるのだが、その不意の訪問を村のあちこちに知らせたために咎められたことがあったのだという。
自分の店で酒を売っている立場の者が、「『酒あらため』が来っから早く隠せよ!」等と触れに歩き、摘発の邪魔をしている。これはけしからん!ということらしい。どぶろく造りをやめさせ、売っている酒を買ってもらう為の『酒あらため』なのだから、確かに舅が触れて歩くのはおかしな話ではある。しかし、これも村の人を助ける相互扶助のネットワークの一つ。舅はごく自然にやっていたに違いない。舅は監獄騒ぎがあってからは触れにまわるのを止めざるを得なかったようだ。サキノが嫁ぐ少し前のことらしい。
さて、当時は大概の家が自家製のどぶろくを造るのが普通だった。サキノの実家でも、母が造っているのをよく見ていたという。嫁いできた家では酒を売っていたので、さすがに造ってはいなかったが、酒を扱う前は当然造っていたようだった。
押部キヨさん(97歳)が、当時の様子を鮮明に覚えていた。
「『酒あらため』は大体毎年くらい来てたなぁ。どぶろくこしゃう(造る)のが冬だから、春先あたりに来るようだった。来るの聞きつけた人が区長様にすぐ知らせるようで、区長様が村中に教えてくれるもんだっけ。いやぁ大慌てで隠すんだが、ある年は天井の高いとこに持って上がって周りをワラで包んでおいた。『酒あらため』の人が3人入って来たから、オレは“どこでも好きなとこ見てくんつぇ”って言って、そこらウロウロしてたわい。そのうち、その人たちが上に上がる階段のそばに来た。はぁだめだ…と思ったその時だ。“痛ぇ、痛ぇ、早く誰か来てくろ!”って爺様の声がしただ。“リウマチで寝込んでる爺様が騒いでっから、そっちに行くんなんねぇ。好きに見ててくんつぇ”って言ったら、役人たちすぐ次の家に移って行ったようだった。爺様が機転きかせて芝居ぶってくれたのや。それで助けらっちゃのな」。
それぞれの家が苦肉の策で隠していたようだった。でも中にはこんな家もあったようだ。
「畑に隠す人もあったが、何とも隠すには時間なくて、便所に全部こぼして始末したって人もあったなぁ。なんぼ、いたましかった(勿体なかった)べ。村で何人かは見っけらっちぇ、後で税金取られてた。おら家も1回だけやられただ。ちょうどお客に出してた時で、隠す間もねぇから爺様たち綺麗に飲んで空にしたのな。したが、1升瓶の下にどぶろくのカスが残ってて、それ証拠に持っていかれたのや」。
こんな、まるで現代のマルサ(国税査察部)のような光景が、毎年の恒例のように繰り広げられていた時代があった。キヨさんによると、戦後しばらくしてから昭和30年代位まで続けられていたようだ。
この地域の跡取り以外の男たちは、冬の出稼ぎに会津若松の酒蔵に行く人もあったのだが、そこで酒のもととなる酵母をほんの少しだけ持ち帰って来る人もあったという。そうした良い酒のもとや、上手に造る人の酒のもとは皆がこぞって欲しがるものだった。我が家の酒を造って飲む時代から買って飲む時代へ、時代が移る過渡期がその頃だったのだろう。
サキノが嫁いだ頃は酒の配達もよくやっていたので、その頃には酒を買う時代へと移っていたように思われる。
それでもある時、電話を受けた舅が勢い込んで飛び出して行ったことがあったという。どこへ行ったものか、暫くして戻った舅は汗だくだった。嫁に来たばかりのサキノが行き先を聞くことは叶わなかったが、舅は何をしにどこに行ったのか。ほぼ消滅に近い『酒あらため』が近くに現れたことを知らされ、条件反射的に飛び出してしまったものか、はたまた違う大切な伝達があったものか、今となっては知る術はない。電話もまだ家々に置かれていないこの当時は、不便ながらも皆が工夫して伝達手段を編み出していた。
サキノがあと少し早く嫁いだなら、伝達係はサキノになっていたのではないだろうか。
舅に代わって駆けずり回っている姿を想像してみるに、夫の紀由では決してない。やっぱりサキノなのだ。