鈍(にび)色(いろ)のお面 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

鈍(にび)色(いろ)のお面

2024.08.15

井口 恵(いぐちめぐみ)

浅見晃司さん(昭和31年生 三島町)

鈍(にび)色(いろ)・・・
「こころで作る色、だと思っている。ぱっと出て儚く消えていく色」
胡粉に膠を混ぜて作る、范洋と、模糊とした中間色だ。
「だからこそ、そこはかとない美しさ、霊界的な美しさがあると思う」
時間の経過と共に変化を遂げる、ずっとそのままの状態で残ってはくれないからこそ、儚くもあり、潔くもある。
浅見さんは能面をはじめ、伎楽面、舞楽面、行道面、創作面といった幅広い分野で制作を続ける面打ち師だ。

「変わっていくことが、自然でしょう。そこに遊びがあって、ゆとりが生まれる」
あぁ、だからか。
浅見さんと、浅見さんが作る面に親しみを感じるのは、そこに模糊とした余白があるからなのだ。
“能面”というものは、今までの私の生活には全く接触のないものだった。
能について説明や解説を聞いても理解が難しく、教養がないことが悔やまれるが、正直少し難解で高尚な日本の伝統芸能、という印象だ。
以前開催された展示会で、一堂に並んだ100点を超す面を見学した時、その凄みと躍動感、貫禄に圧倒された。
表情がわかりにくい、いや、どうにも受け取れる、たくさんの面にどうやって対峙すればいいのか戸惑いが大きかった。
しかし、ひとつひとつとじっくり向き合っていくと、はじめに感じた緊張が徐々に解け、多様な人と出会うような、不思議な高揚感に変わっていったのだ。
そこには威圧感などではなく、多くのものを受け入れてきた歴史と寛容さ、があったのだ。

奥会津の桐や朴から彫り出した面に、何度も何度も胡粉を重ねて表情を磨き上げていく。
そして、生きている自然素材の木と漆と膠の変化から(面の表に膠、裏に漆を使う)、1㎜の間隔で描かれた髪の毛1本、顔の筋肉が動き、面の表情は常に変わり続ける。
流動する微小な狂いと修正を繰り返しながら、ひとつの面が完成するのには時間がかかる。
「まずは全体をぐわっと掴む。そこから削りながら、凹凸の膨らみを付けて立体感を出す。これは目の錯覚でもあるんだ。削いでいく方が、性に合っているね」
無駄を削いで陰と陽を付けていくことで、必ず影ができる。
その影の余韻の美しさが、全体の表情を包み込む。

「人智を超えたところを目指しているから。危険な生き方だと思うし、ほぼ“まぐれ”だね」
セレンディピティ(幸運な偶然)。
浅見さんの面は様々な条件が偶然に調和したとき、面自身が完成させるものだという。
偶然とすると、まるでどこか未知なるところで操作された運や縁のように感じるが、浅見さんの場合はちょっと違う。
「姑息さや、強かさ、しつこさの結果でもある。年をとるとうまくなるんだよ。若い頃はそれができなかった」
“偶然の調和”を呼ぶために、これまで虎視眈々と、用意周到に、努力の罠を張り続けてきた。

雅楽は仏教と共に伝来し、日本向けにカスタマイズされた日本最古の伝統芸能だ。
雅楽は、主観や表現、アレンジなどは一切なしで教えられた通りの変えてはならない形式的な音楽であるのに対して、能楽は元より、大衆が娯楽を求めて見よう見まねで演じた猿楽がルーツになる。
猿楽は民衆を飽きさせないよう、常に楽しませるために、その時代に求められる形で大衆から磨き上げられてきた大衆芸能だ。
そのために、単純ではつまらないとひねりの効いた美徳を追求して変化を続けてきた表現が能楽にはある。これが、少し難しく感じる部分なのだ。
能楽で実際に使用される『本面』は、演者がつけて初めて完成するものであるから、オリジナリティや個性は一切入れない。
それに対し、浅見さんが多く作る複製としての『写し』は面を完成させたものに、さらに求める人の希望を踏まえた伝統を越えた作品となっている。
そこには“独自の意匠”が加わり、あえて期待に応える面としての楽しさや味わいを意識したものとなっている。
浅見さんは能楽奏者から入り面打ち師になる中で、ホルンにピアノ、ギターも嗜み、JAZZやロック、クラシックまで愛でながら、現在は雅楽の伶人(楽師)でもある。
クラシックとモダン、アカデミックとリベラル、表と裏を行き来しながら、緩やかな遊びを漂いながら面と向き合う。

「魚って、流れがあるところにいるよね。流れが止まると、濁るんだよ。だから、伝統は、止まるべきではないと思う」
何度もお食事にご招待いただき、そのたび私は浅見さんの面世界に近づきたいと、質問と対話を繰り返している。
しかし、その都度、核心を得たような、また突き放されてしまうような、煙に巻かれるのが常だ。
近づけたようで、なかなか近づけない。
でも、実はそのやりとりが心地よいし、核心に至れない曖昧さでも許してもらえるから、理解が及ばない私でも、浅見さんと面を身近に感じられるのかもしれない。
正解はなく、留まることもなく、流れて開かれたものであることが、古典的伝統芸能を今につないできたのかもしれない。
浅見さんが面に求め続けるその“鈍色”に、未来に続く伝統への、光が見える。