井口 恵(いぐちめぐみ)
倉根裕之さん(昭和42年生 三島町)
真っ直ぐの柾目、黄金色の木肌。
「ひとめぼれだった。一瞬で、心が奪われたんだよね」
ダークブラウンが基調のカントリー風の家具が並ぶ中、ひと際目を惹く輝きを放っていた桐箪笥。
大学を卒業後、百貨店の家具販売場で働いていた倉根さんの桐箪笥との出会いだった。
それまで、特別桐箪笥に関心を持ったことはなく、母親の少しくすんだ色の桐箪笥が自宅にもあったことには、後々気が付いた。
興味が起きるとご縁が繋がり、桐箪笥を「作る」職人という存在を知ることになって、木工の訓練校で学んだ後、三島町の会津桐タンス株式会社に入ることとなった。
訓練校で木工の基礎を少し学んだばかりの倉根さんは、木の長さや幅、厚みを揃える“下ごしらえ”作業から始まった。
ちょうど外材の増加と景気悪化のタイミングもあり、倉根さんの後に続く新人が長く入社してこなかったため、これが長く大変な、苦しい下積み期間になったようだ。
「全く、憧れた箪笥を作る段階に行けない。ずーーーっと下ごしらえ。作りたい意欲が過ぎちゃって、諦めモードになって辞めようと思ったこともあった」
入社から8年後、ようやく製造への異動が決まったが、憧れていた作業と実態はかけ離れたものだった。
「下積み期間が長くて、頭が柔らかくなくなっちゃったのかな…散々だった。オレってこんなに不器用だったんだ、て」
まずは作り方で使う刃物を研ぐことに、苦戦した。
それから10年程、図面を見ながら小袖箪笥、額、引き出しなどの小物を中心に、悪戦苦闘しながら自分の技を磨いていった。
「やり始めると、悪い癖も出てきちゃって、抜け出すのにも時間がかかったんだよね」
そんな倉根さんは、最近では修理と削り直しが仕事のメインになっている。
「最近は、持ち主が亡くなったことがきっかけで、遺族からの修理依頼が多いんだよ」
故人の思い出を残そうとする人が、増えているようだ。
「癖のみ、癖だらけ。直すより、作った方が楽」
様々な時代の、様々な職人が作った桐箪笥が倉根さんのもとに運ばれてくる。
その素材の質も、作り方も、職人の癖も、歴史を刻んでさらに灰汁の強くなった厄介な箪笥との“闘い”だという。
「作業量と予算から、なるべく早く終わらせたいのに、終わらせられない。それが、辛いところ。自分で作るのよりも大変で、たいへんで。最初は嫌だったけど、どうやって生き還らせるか考えながらやり始めると、これがやめられなくなっちゃう」
直すところがあればあるほど、手を掛けたくなり、手を掛けすぎだと注意を受けるほどまで追求してしまう。
「こんなに変わった!って、どんどんハマっていった。楽しくなっちゃって」
完成させたときの達成感にたまらなく満たされるようで、修理から抜け出せない状態だと少し困ったと、でも嬉しそうに、誇らしそうに語ってくれる。
「こんなに苦労させられると、他人のものではないみたいに、どんどん愛着が湧いてきちゃうんだよ」
自分では習ったこともなく、絶対やらないような作り方と出逢ったり、作った職人の技を見つけて学ぶことも多いという。
“自分の箪笥”を作る職人とは、少し向き合い方が異なる、桐箪笥職人。
「面倒くさくて、汚い作業。でも、修理が中心でも、いいのかもしれない・・・」
黄金色に輝く荘厳な桐箪笥に惚れこんだ倉根さんは今、割れて軋んでくすんだ桐箪笥を、生き還らせることに情熱を注ぐ。
奥会津では、持ち主を失い、古民家の片隅でひっそりと眠る桐箪笥と度々出逢う。
和服を着る機会もなくなり、クローゼットが備えついた最近の住宅では、桐箪笥を新調することは少ない。
しかし、かつて親から愛する子に贈られ、その生活を支えてきた桐箪笥に職人の手が加わることで、そのいのちが新たに暮らしに彩りを与えてくれるのかもしれない。
桐箪笥に惚れ、桐箪笥と向き合い、桐箪笥と闘う、職人の真っ直ぐな姿勢が、桐箪笥に新たな価値を運んでくる。