会津を支えた軽井沢銀山 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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会津を支えた軽井沢銀山

2024.07.01

井口 恵(いぐちめぐみ)

古生一郎さん(昭和28年生 福島県いわき市)

戦国時代後期から明治時代中期まで、閉山と再開を繰り返しながら(1558年(永禄元年)開山~1896年閉山)、会津藩の莫大な財政を支えた銀山が、調べてやっと辿り着くことがきる柳津町の深い山の中にある。
ここ軽井沢銀山で採掘された銀は、会津若松まで続く銀山街道を通って鶴ヶ城に運ばれていた。
山々の生い茂る緑に埋もれそうな道に沿って車を進めていくと、突然ぽっかりと、崩れかけた、もの寂しい大きなレンガ造りの溶鉱炉煙突が現れる。
ここに、最盛期には年間4トンもの銀の採掘がされていた鉱山があったことは、現在の状況からは到底想像ができない。
人が住んでいたことが信じられないような原野の中、周囲がきれいに除草された家屋が1軒だけ残る。
この家主で、定期的に管理に通う古生一郎さんに、軽井沢銀山の思い出を聞くことができた。(祖父古生銀三郎さんから聞いた記録を含む)

1896年の閉山前まで、一郎さんの家族は鉱山で働く人や訪ねてくる人を泊める宿の営業をしていた。
当時は鉱山で働く人は町外から来た人ばかりで、地元の人が鉱山と関わることはほぼなかった。
金本位制により銀の価値が急落したことで閉山となり、一気に軽井沢から人が出ていった後、地元民は残された屋敷跡を開拓して田んぼにして生活を続けていた。
一郎さんの家族も閉山により宿の経営を終えることになり、かつて銀山の事務所として使われていた建物を譲り受けて一家で暮らすようになったのが、今も残る一郎さんの生家だ。
この家のすぐ隣では採掘作業が行われており、鉱山と暮らしはまさに繋がっていた。
「坑口からの水は渋くて飲めたものではない。手を入れていられないくらい冷たいんだよね」
生活用水には鉱脈とは別の水源の沢水を使っていて、鉱山と繋がる川は、鉱山から流れ出る水が合流する一区間だけ魚がいなかった。
家のある一帯は『御屋敷』という地名で、かつてはたくさんの家屋の他に寺や学校、鍛冶場、塩倉、郵便局などが集まる場所だった。
また、軽井沢からひとつ峠を越えた西山温泉には女郎宿があり、鉱山で働く男衆が峠を越えて頻繁に通っていた。

日本屈指の銀山だったのだから、当時の記録資料もたくさん残っているはずだ。
「銀が出ていることは隠してないけど、あえて、細かい産出量は文献に残さなかったんだと思うよ」
宿をしていた一郎さん宅は鉱山のズリ山が崩れるようになって家を取り壊した。その際に文献などはすべて損失してしまい、現在確証となるような資料は残っていない。
柳津町史に残るのはここまでだが、どうやらその先があるようだ。
「じいさんが、財産全部なくしちゃったんだよね」
1896年に閉山した後、一郎さんの祖父である古生銀三郎さんが鉱山経営を引き継ぐことに手を挙げた。
1913年頃まで、銀三郎さんと軽井沢地区の人たちを中心に、小さな規模で銀の採掘を続けていた。
銀三郎さんはそれまで宿泊業をしていて銀採掘にはほとんど関わっていない状態から手を出したため、財産を投資しながらもなかなかの苦労をしていたそうだ。
銀三郎さんが手を引いた後も、いくつかの企業が入り、小さな規模で採掘を行ってきた経緯があることが伺えた。
「穴が開いていたのは小さい頃の記憶に残ってるよ。坑道に入ったり、トロッコ動かして遊んでたんだよね」
2003年頃、最後の会社が閉山する頃には跡地をすべて元の状態に直すことが条例化されていたため、いたるところに掘られた坑道も、一郎さんが小さい頃遊び場としていた線路やトロッコも、すべて更地に戻されて今の状態になった。

鳥の声がこだまする穏やかな日差しの中、銀山の跡地をご案内いただきながら一緒に歩かせていただいた。
今では春に山菜を採りに来る人がたまにいるくらいで、ここを目指してこない限り人の往来はほぼない。
会津藩を支えた銀山は、どこか寂しく、賑やかだった時代の気配を漂わせているようにも見えた。