【きかんぼサキ】夜な夜な向かう先は | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ】夜な夜な向かう先は

2024.04.01

 渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 サキノが高校2年の時、父が亡くなった。三人の姉も嫁ぎ兄も就職で家を出ていたため、そこからサキノは母との二人暮らしとなる。高校卒業後の就職はまず家から通えるところ。そこで見つけたのが、横田鉱山の組合の事務員だった。迷うことなくサキノは就職を決め、社会人生活の第一歩を踏み出すこととなる。

 サキノが就職したのは昭和35年だった。その頃の本名の状況をみてみると、本名ダムが完成し発電を開始したのが、昭和29年8月のこと。工事関係者で溢れかえる状況からは多少の落ち着きは取り戻したものの、電力関係の人や変電所関係の人でまだまだ活気のある村だった。

 村には若者たちが大勢いた。ある日、この大勢の若者たちの中から、うら若き乙女たちにだけ招待状が届いた。
“下原(したばら)の変電所宿舎、食堂ホールにて○○時より催しあり。是非ご参加下さい。”と。
「何だか分かんねぇが、友達と一緒にまず行ってみんべと行ったわい。そしたらダンスパーティーのことだった。変電所の人が親切に教えてくれてなぁ。楽しくて楽しくて、それから通うようになったのや」。
 村の乙女たちにダンスブームが巻き起こる。サキノも仕事から帰り夕食を済ませると、そそくさと宿舎へ向かう。飲み物と少しのつまみ等が置かれた食堂に、男女半々位の若者たち。入れ代わり立ち代わり何人もの変電所社員がスマートにリードしてくれる中で、招待された乙女たちはあらゆるステップをマスターしていくのだった。
「スーツのようなシャキッとした格好で上手にリードしてくれる。ここらの人でねぇから、何となく話題も違うべ。こっちも一張羅のスカート着て、ちっと気取って行ってたもんだわい」。 
 サキノですらそうだったのだから、乙女たちはさぞ心ときめかせ通っていたことだろう。

時には華やかな舞台演出もあったようだ。
「電力の人だからか、キラキラ電気灯すのも手もなくやってくれんだ。シャンデリアみてぇな照明見たのも初めてだったし、そんな中で踊れる日は気持ち良かったぞ!週に2~3回は行ってたな。あの頃みっちり覚えた本名のおなごてぇは、ダンスは何でも踊れるはずだ」。
この、いわば出会いの場から、見事にゴールインを果たした方々もいたという。残念ながらサキノが見初められることはなかったようだが…

 こうした女性たちの嬉々とした様子を快く思わなかった人たちがいる。他でもない地元、本名の男性陣だ。かたや招待と称して、スマートに華やかに女性をもてなす男たち。かたやダンスはフォークダンス以外未経験。飲んで騒ぐのが関の山の男たち。女性たちをこちらの持たない手札でさらっていかれるようで、何とも面白くなかったのだろう。
「あぁだどこに行くことねぇ!」など、悔し紛れに捨て台詞を吐く男性もいたようだ。

 一方で当時は青年団活動も活発だった。コーラス、演劇、フォークダンス、スポーツ…活動は多岐にわたる。リーダー研修会で学んできた人が村に戻り仲間に教える、そんな組織的な形もあった。そのうち青年団の中でバンド活動を始める人も出て来たという。電力社員に負けじと、村の女性たちに格好いい姿を見せたい!そんな必死のアピールが透けて見えるようでいじらしい。

 夢中にダンスをしていた頃から40年近く経った頃のことだ。サキノは郡山の知人に誘われ、中国旅行に出掛ける。旅行の後、同行した知人の思いがけない言葉を聞いた。
「いやぁ、色々観光したのに、あの晩のサキノさんが強烈で他の事忘れちゃったよ」と。
一体なにごとがあったのか?
「あ~面白かった!」程度の感想しか聞いていない私には、全く見当のつけようがなかった。
旅行の滞在中に、一晩だけ優雅なお店を訪ねた日があったという。そこは広い舞台ホールを備えた店。なんとサキノ、そのホールの真ん中で縦横無尽に踊りあかしていたのだという。それも同じツアーの郡山マダムたちの目の前で!
 夜な夜な通って身につけたステップが、はるか中国のステージで花開いた瞬間だった。当時がよみがえり楽しさ爆発のサキノにとって、万里の長城などすっ飛んでしまったことは言うまでもない。

村の男たちのバンド