【きかんぼサキ】水辺の風景 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ】水辺の風景

2024.03.01

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

「本名は水をうんと大事にする村だったんだ」
懐かしそうに語る方がいた。かつて本名では江戸時代に水路の整備を整えたことで村の中を堰が巡らされ、その堰の水が暮らしには欠かせないものだった。

それぞれの家が堰の水を家に引き込む工夫を施し、風呂の水、洗い物やらに使っていたという。飲み水は家に井戸を持つ家はそこから、また山の湧水を家に引き込んだ家はそこから汲んで使うものだった。
 夕方になると「風呂の水汲めよ!」と子どもたちが言いつけられる。サキノはその堰のところに張り付いているツブ(タニシ)を取ることも抜かりない。それは潰して家畜の餌に使っていたという。
そして何より、堰の上流にある家々は下流の家々のことを考え、汚れた水が流れていかないような使い方をする。“堰で洗濯してはいけない”といった教えを、年寄りたちから時折聞かされていたのだという。そうして、村の皆が気持ちよく使えることが当たり前に行われている村だった。

また、村のはずれにある大きな清水(※1)も、本名の人たちにとって大切な場所だった。そこには流れに沿って大きな水盤が2つ並び、トチのあく抜き、棒タラうるかし(浸し)、大根や白菜を洗う、そんな人たちで場所を取るのが大変なほど賑わうところだったという。夏は冷たくて冬はぬるい水だからとても良い水場で、村の女性たちの社交場の一つにもなっていたのだろう。そこは、子どもたちの川遊び場の近くでもあった。河童に悪さをされないようにと、キュウリと梅干を呪いに持たされた子どもたち。ひと浴びして石の上で腹を温めながらそれを食べる。もうひと浴びして帰り足に、最後に清水で水を飲む。このお決まりのコースの中でも外せない場所だった。
村の反対の方には“堂の下の清水”という場所もあった。冷蔵庫も無い時代、夏場の冷たい水と言えば清水しかない。「水汲み行ってこぉ!」どこの家の子どもたちも、夏になるとどちらかの清水を汲みに行く。これが夏の日常の風景だったという。

 ところが、昭和27年に始まったダム工事から、困ったことが起こるようになった。よそから来た人たちが大事な堰に色んな物を捨ててしまう。また更には平気で用を足してしまう。村の人たちにとっては見過ごせない事態があちこちで起こるようになってきたのだ。小さい子どもなどは堰で水遊びをすることもあった。そこにガラスの欠片などが落ちていることもあり、「裸足で入ってはダメだぞ!」と言われることもあったという。飲み屋も増えて酔った人があちこちにたむろするような毎日の中で、こうした事態を改善するのは容易なことではなかっただろう。

 この事態にきかんぼサキも黙ってはいられない。そんな大人を見つけると
「この堰は村の人みんなで大事に使ってんだから、そぉだことはしねぇでくんつぇ!」
と言ってしまう。
「なんだと!」と言い返されても、サキノは全くひるまなかったという。友達は少し離れながらも心配で見ていたそうだ。ささやかな抵抗でも本気でやってしまうのがきかんぼの習性だが、サキノの必死の言動でも事態が改善するはずもなかった。

 しかしやがて、工事に従事する沢山の人が入ってきたことにより、村の中でもあまり水が行き届かない場所にも集合住宅が建てられ、水の供給も含め、一気に増えた人口の需要を満たすために、水道整備の動きへとつながっていく。水道への移行は必要不可欠であったのだろう。でも一方で、次々と繰り広げられる変化に戸惑いを隠せなかった人も少なくはなかったようだ。
「たいして不便とも思ってなかったんだから、今の人が見たら笑っちまうべ」とサキノは言う。

 本名のいくつかの水辺の風景には、のどかで恙ない暮らしがあった。
一度手にした便利というボールを手放すことは出来ない。ただ、不便というボールをなぜだか嫌な顔もせず操っていた人たちの風景も時には思い出してみたい。そこに見え隠れするあたたかさ、それを忘れてしまわないように…

※1  昭和38年、本名で起こった赤痢の大流行を機にこの清水も使われなくなったという。伝染病が発生すると、子どもたちの川遊びも禁止される。子どもたちが川で遊べなくなり学校にプールが造られるようになってきた、とのお話も伺った。この地域のそれぞれの学校のプール建設の年度が違うことには、こうした伝染病やダム建設の背景が関連していたのかもしれない。