菅家 洋子(かんけようこ)
猪苗代湖の白鳥の北への旅立ちが、今年は一カ月ほど早く始まったという。ついにこの時が来てしまった。しかもこんなに早く。名残惜しい。白鳥は私にとって、とても大きな冬の象徴なのだと、改めて感じる。白鳥の旅立ちは、冬の旅立ち。そしてこの知らせは、今季の暖冬がどれだけ季節を進ませているのかを、明確に教えてくれた。
2月13日、昭和村公民館で、奥会津ミュージアム連携企画「奥会津の冬の暮らし」が開催され参加した。元福島県立博物館専門学芸員の佐々木長生先生の講演、先生と昭和村文化財保護審議委員長である菅家博昭氏(夫のヒロアキさん)の対談という二部構成の内容。
当日ヒロアキさんと、会津若松のご自宅に佐々木先生をお迎えに行った。ぐっと冷えこんだ
晴天の朝、先生は、澄んだ青空にくっきりと浮かび上がる磐梯山と飯豊山の美しい姿を眺めな
がら、「今日は最高の日だ」と嬉しそうにされていた。
会場には、近隣町村から20名を超える人が集まった。江戸時代の暮らしについて綴られた「風俗帳」から見える、「会津の冬」。先生はなごやかに、ユーモアを交えながらお話され、みなさん楽しそうに笑ったり、熱心にメモをとる姿があった。
藁やスゲ、ヒロロなどで編んだ蓑(みの)を、雪の中にのめる(埋める)という行為がある。これによって、夏になってもカビが生えたりして素材が傷むことなく、長持ちする。例えば、作ってから50年経った会津の蓑が、10年ほど経過した浜通り(相馬・先生の故郷)の蓑と同じくらいの状態だという。笊などの編み組みも、寒中に軒先に下げておくことで、目がつまり丈夫になる。「寒にさらす」ことが、どれだけものを強くするか。この土地に暮らす人のたくましさを思い、人間もそうなのかなと、ふと考えた。
参加者の一人が、藁で編んだ「祝いヅト」を持参された。これは、婚礼などの祝いの席で出た料理を持って帰るための入れ物。納豆をねかせる藁のツトよりも大きく、手で提げて持てるように紐もついていた。近くに座っていたおじいさんの話では、昭和25年ころまで家で作っていたとのこと。
江戸時代に佐瀬与次右衛門が書いた農業技術書『会津農書』のお話も興味深かった。村を押し流すほどの勢いを持つ雪解けを利用した「田冬水」(流水客土)。ミネラルや微生物を含む肥えた土砂を田に流し込み、土を豊かにする。季節と環境の利、あるものを生かしながら営まれる農業。そこには、厳しさはもちろんだけれど、山や川からの恵み、巡るものから「与えられている」という感謝と歓びが、今よりもずっとあっただろう。肥料や問題が起きた時の対処を、外部で買ったものを持ち込んで済ませている今の農業では、その感覚はほど遠いなぁと感じた。会津農書は、稲作、畑作、そして屋敷まわりを整える方法まで記載があり、農業を行うには栽培方法だけでなく、周囲の環境をどう整えるか、その心構えまで示しているという点で、他にない農書だということだった。感心するとともに、当時の農業は、その土地と関わって生きること、そのものだったのだろうと納得する。
帰りの車の中で佐々木先生に「会津農書を読んでみたいと思ったら、どうすればいいですか」と聞いてみると、先生が翻訳したものが、農文協から出版されている「日本農書全集」にあると教えて下さった。原稿は、用紙に手書きしてからパソコンで打ち直して提出しているという先生。無駄なことと言われるけれど、そうやって書きながらアイディアが浮かんでくる。「でんでん虫でやんだ(やるんだ)」とぽつんと発した言葉に、先生が残してこられた、膨大な、貴重な記録、一歩一歩積み重ねられてきたお仕事の尊さを思った。夕日に照らされた飯豊山の起伏の陰影が、彫刻のようにきれいな夕暮れだった。