渡辺 紀子(わたなべのりこ)
日頃の定着したイメージは、そうそう崩れるものではない。サキノにとって代名詞のような“きかんぼサキ”が、時によって厄介なことを招くこともある。
サキノが通う川口中学の運動会はその学校単独で行うものではなく、近隣の沼沢、横田、昭和という3校と合同で行う4中対抗運動会だった。年に一度の他校との対抗戦。そこでは応援合戦も繰り広げられていたようだ。他校の応援もなかなか見る機会は少なかったとみえて、「沼中(沼沢中学校)の応援歌が、とてもいい曲だなぁと思って聞いた覚えあるよ」と語って下さる方がいた。
勿論、応援団長のサキノにとっても晴れ舞台。俄然張り切っていたに違いない。そして、サキノは足も遅くはなかったらしい。競技でも全力投球だったはずだ。
その運動会の翌日のことだった。サキノは朝から腹痛で目が覚めた。少し様子をみたが、全く治まる気配はない。
「おがぁ、何だか腹痛ぇみてぇだ」と母に訴える。
「きんな(昨日)欲はってうんと食ったからだべ。寝てっと治っから寝ててみろ」!
そう言われ少し休んでみた。でもやっぱり痛い。今度は父に訴える。
「おどっつぁ、やっぱまだ腹痛ぇ」。
「食いすぎに決まってる」!
まだ信じてもらえない。結局しばらく休んでいたが、痛みは増すばかりだった。
そうして昼時分になった。
「ちっとこれは食いすぎではねぇかもな」。
母がやっと動き出す。当時、本名集落から一番近い医者と言えば、隣の西谷集落にいたお医者様だった。そこに連れて行くのかと思いきや、母の判断は違っていた。保健婦をしている自分の妹の許へ託すという判断だった。とにかくそこに任せておけば何とかしてくれる、そう思ったのかもしれない。
叔母のところへは、歩いていくには遠いところだった。ましてやサキノは病人だ。母はとっさに思いついたのだろう。当時、近所で“合同貨物”という運送会社を始めた人があった。そのトラックに乗せてもらえるよう頼んできてくれたのだ。サキノは一人そのトラックに乗せられ叔母の家に行き、そこで一晩過ごすこととなった。
様子を見て叔母も自分の手に負えないと思ったのだろう。次の日にまた合同貨物のトラックが来て、サキノはここから一人で県立宮下病院に向かうことになった。
結果、サキノは盲腸だった。痛みが出て二晩も経過しての状態に「何でこんなになるまで来なかったんだ。うんと危なかったぞ」と、お医者様に言われたようだったが、サキノは何とも答えようがなかったという。
即手術となり、その晩だけ近所の友達が一人来て付き添ってくれた。その友達がいてくれたことは、どんなに心強かっただろう。次の朝には友達は帰り、あとは一人で1週間程入院生活を送り帰宅したという。
急病はいつでも起こりうる。サキノが育った昭和20年代~30年代にそうした人が出た場合、近くに医者がいる集落はそこへと駆け込めたのだろう。でも、医者にかかるには、当然何かしらの謝礼が発生する。サキノの家のように貧乏な家では、気軽でもなかったに違いない。民間療法によって治してしまうことも多かっただろう。
サキノの盲腸の話に、目くじら立てて親の対応を責める気にはなれない。ただ事ではないと気付いてからは、精一杯やれることをやっていたようだ。救急車の無い時代(※1)、置かれた環境や境遇が違う中で突然降りかかってしまう事態に、それぞれの家が最善を模索しながら事に当たっていたに違いない。
「あの頃は病院なんて死ぬところではねぇ。家で死ぬのが当たり前だと思ってた」。
ある方がさりげなく語った言葉で腑に落ちた。何が起きても誰を責めるでもなく、また、もしこうだったら…と思いめぐらすわけでもなく、ただただ下された結果を受け入れていたのだろう。時に「あれが寿命ってことなんだべ」といった言葉を添えながら、心をどこかに落ち着けていたのかもしれない。
「盲腸なのに途中“中泊まり”しながら行ってんだも、呑気なもんだべ!まぁ、神様がこのきかんぼはもうちっと生かしておくべ!としてくれやったんだから有難いことや」。
サキノにとって初の入院体験も、こんな言葉で閉じられるのだった。
※1 参考文献『消防年報 平成30年版』 会津若松地方広域市町村圏整備組合
令和元年刊行
昭和47年4月1日 会津若松地方広域市町村圏整備組合消防本部、署となる。
昭和48年1月15日 組合消防署金山出張所開設。消防自動車1台、救急自動車1台、連絡車1台、超短波消防専用無線電話装置、人員8人を配置
この資料の中に上記の記述が見られることより、この地域に救急車が配置されたのは 昭和48年1月15日。それまでは救急車の無い時代だった。