井口 恵(いぐちめぐみ)
金坂富山さん(昭和25年生 柳津町)
わずか5㎜の籾殻、10㎜の銀杏、30㎜の胡桃を厨子にして、硬くて粘りがあり、木目が細かく積んだマユミやツゲの木で、その中に収まる極小の神仏像を彫る。
天正6年(1578年)安土城の織田信長に謁見した圓蔵寺の富山西堂方丈が、城内でふと拾った胡桃の中に虚空蔵菩薩を見たところから、柳津町の微細細工の歴史が始まったと言われている。
これまで脈々と、代々受け継がれてきた技術では、ない。
彫り手が現れては途絶え、しばらく経ってまた町内のどこかで彫り手が現れる。
修行を積めば彫れるようなものではなく、特殊技能なのだろうと思われる、信じられないくらい極小の世界だ。
ルーペを近づけて目を凝らし、息を詰めるようにしてよく見ると、穏やかにほほ笑む虚空蔵菩薩さまと出逢える。
福満虚空蔵菩薩圓蔵寺のある柳津町でだけ、途絶えては再生する、不思議と繋がる技だ。
そんな微細細工では珍しく、富山さんの父親も微細細工の職人だった。
しかし、富山さんはそれを継ぐつもりなど全くなく、中学を卒業してから東京築地の海苔問屋に出稼ぎに出た。
その間、朝早い市場での仕事が終わった後、趣味としてデッサン教室に通っていた。
「芸大受験する人たちの予備校みたいなところで、ほとんど人物像を描いてたね」
その経験を活かし、海苔問屋を辞めてからは友人たちと立ち上げた会社でマッチ、チラシ、ポスターなどのグラフィックデザインの仕事をしていた。
学校卒業以来しばらく離れていた実家の父親からの誘いもあり、それまで全く興味を示してこなかった微細細工の世界に足を入れることとなる。24歳の時だった。
「当時は圓蔵寺の参拝客が途切れることなく、ここら辺は温泉宿泊もあってものすごい人が来ていた。虚空蔵菩薩を詣でた人が、お土産として手元に残せるサイズで作った」
当時は、虚空蔵菩薩なら1日3体、恵比寿大黒だと1日2対。
「これ覚えないと小遣い入らないから、必死だったよ。辛抱っていうのかな、苦しんでやってきたよ」
平面から立体へ、好きで学んでいたデッサンから世界が広がり、始める当初見込まれていた5年程でものになってきたという。
「自分では納得できないものでも、親父に見せるとよくできたんじゃないかって、褒めてくれた」
先代の父親の反応は、富山さんの背中を押した。
「相手と会って直接話して、相手を知ってから、彫る」と言う。
現在は注文をいただいた際は、実際に工房まで来店いただき、依頼者と直接会ってからの完全受注制作をしている。
手間も時間も惜しまず、依頼者のための、神仏を彫る。
「一体一体その人のために彫るから。求めてくれる人の想いを汲めれば、彫るときの力にもなる。求めてくれる人に、応えたい」
一刀一刀、角度で微妙に表情が変わる。
正直、一瞬見ただけでは小さくて見えない表情も、よくよく見ると、どれもがそれぞれ穏やかで、優しいお顔だ。
ようやく、その豊かな表情に触れた瞬間、ほっと笑顔が生まれ、ふっと心が落ち着く。
息を止めるような瞬間の、ミリ単位以下のひと彫りに、求めてくれる人への想いを込める。
目を凝らして、意識を向けないと見えないところにこそ、小さな神様仏様がいることを教えてくれる。
工房の真ん中に、富山さんの信念が掲げてある。
「これいいでしょ。『楽』の横に『`』があるの。仕事はひとり楽しくやらないと続かないよ。で、コマは芯がないと回らないからね」
柔らかく穏やかな富山さんの真ん中には、硬くて揺るぎない芯がある。
どんなに小さな世界でも、しっかりした芯があれば、自由に回り転がり、その周りには、きっと優しさも安らぎも生まれる。