【講演録】田口洋美先生「旅マタギの狩猟イノベーション」後編 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【講演録】田口洋美先生「旅マタギの狩猟イノベーション」後編

2024.02.01

須田 雅子(すだまさこ)

狩猟文化研究所代表、東北芸術工科大学名誉教授
田口洋美先生
2023年11月19日 三島町ゲストハウス「ソコカシコ」にて
主催:「山学」(山の生活文化を愉しみながら学ぶサークル)

「秋田の旅マタギが起こした狩猟イノベーション」(後編)

江戸時代の東北では、ガバメントハンター的存在の人たちがマタギと呼ばれていた可能性が高い。今と同じで害獣の駆除隊。ただの猟師じゃなくて腕のいい、ちょっとランクが高い人たちを、在郷足軽身分として藩が抱え込む。彼らは使役(労働)が免除されたり、褒美が与えられたり、クマを駆除すると報奨金がもらえたりする。

八戸藩はイノシシが農作物を食い荒らしてしまい、人間が飢え死にする「イノシシケガチ」に悩まされていたんですが、そこにも秋田のマタギたちが猟に来ているんです。「秋田よりまわりそうろうマタギ 万助と申すものよりクマ留めを習った」と書かれた古文書がある。阿仁の過去帳を調べると万助が実在していたことが裏付けられる。面白いのは、鉄砲を使わないでクマを獲る技術を秋田マタギから教えてもらったから、私もマタギとして認めて下さいと藩に申請していて、なんと八戸藩はこれを認めて許可を出すんです。そうして簡単にマタギの称号をもらっていた。藩が密猟を内々には認めていた、見て見ぬふりをしていたわけです。それほど状況は切羽詰まっていただろう事が窺えます。

幕末から大正期にかけて、クマを獲ってお金を稼ぐ人たちがものすごい勢いで増えていくんです。クマの胆(い)が万能薬、生薬として利用されるようになって、現金収入を得たい人たちがクマを獲り始める。

鈴木牧之は『北越雪譜』の中で「一熊(いちゆう)を得ればその皮とその胆(きも)と大小にもしたがへども、大かたは金5両以上にいたるゆえに猟師の欲(ほっす)るなり」と記しています。クマが獲れれば、皮とかクマの胆を売って五両以上になる。だから猟師が欲しがるんですよと書いている。一両が今のお金で大体16万~20万円ぐらいですから、80万~100万円前後となります。

冬から春にかけてのクマの価値は越冬中にクマの胆が溜まるため非常に高いから、猟師はクマを獲るための技術を欲しがるわけです。そこにその技術を持った秋田マタギが来る。秋田マタギたちを村に定着させたい。だから、きれいなお嬢さんに相手をさせて婚姻までいく。秋田マタギがお婿さんに入り、地域の猟師を束ねて、クマを獲ったりする。そういう形で技術移転が密かに行われていた。

秋田マタギは賢くて、江戸時代の市場経済を巧みに利用している。クマの胆は藩ごとに価値が違うんですよ。例えば秋田で一匁が1万円だとすると、長野では5万円とか。クマを獲って胆で稼いだお金で安い地域のクマの胆を買って高い地域で売る。つまり価格の地域間格差を利用して利ざやを稼ぐわけです。

旅マタギの人たちはウサギとかヤマドリを獲ってマタギ宿に持っていって、代わりに米とか味噌をもらう。マタギ宿の人たちは、後々、薬草商や売薬行商人と仲良くなって、クマの胆の販売もするようになる。各地に店があって、店の注文に応じて秋田マタギが商品を出し、世話にもなる。そういう関係のネットワークが、江戸後期から明治初期にかけて、東北地方から北陸地方一帯で出来上がっていた。普通の人では作れないネットワーク。秋田マタギは独占的にそれを利用できた。そこには修験などとの関係もあって、鉱物資源・漢方生薬などの本草資源の取引と加工販売ルート、そして業界的な利権の集合もあって大きなネットワークができあがることになった。
秋田マタギは単にカモシカやクマを獲っていただけではなくて、自分たちの生活を豊かにするために、ものすごく考えて、人的なネットワークを作り上げていたんです。

要するに、山の人たちが現金収入を得るためのイノベーションが狩猟を通じて起こっていたということです。そこには狩猟技術、とりわけ銃器を用いずに捕獲できる罠の技術、市場の要求に応える資源調達と流通という、まさに近代前夜の市場に適応した動きがあった、ということになります。今、鳥獣被害対策実施隊とかで若い人たちがいろいろやってくれているんですけど、秋田の旅マタギがやったことは大きな参考になると思うんです。これから山をもう一度見直していくときに、若い人たちがどうやって周りの人たちとネットワークを作って、どういう世界を構築できるか。それによって現金収入のあり方も変わってくると思います。令和のビジネスチャンスというものがあるかも知れない。

マタギというのは精神的に山の神と結びついていて、神とクマと命のやりとりをしているというところに認められている地位がある。会津の猟師はマタギと名乗らない。自分たちは鉄砲撃ち(てっぽうぶち)だとか猟師としか言わない。そういう構造がなぜ出来上がったのかということまで説明ができるようになると僕の研究は卒業なのかなぁと思います。命あるうちにこれができるかどうかわかりませんが。まぁ、そのように謙虚に、自分たちの狩猟に関する能力は秋田マタギには敵わないという気持ち、マタギに対するリスペクトがそうした表現にこだわる下地としてあるのかと思います。もうちょっと具体的な、論理的な説明というモノを絞り出す必要があるという意味ですけれども、これで今日は終わりにいたします。