須田 雅子(すだまさこ)
2023年11月19日、「奥会津山文化研究所」の「山学」(山の生活文化を愉しみながら学ぶサークル)主催による、狩猟に関するトークイベントが三島町のゲストハウス「ソコカシコ」で開催された。
「狩猟文化研究所」代表の田口洋美先生(東北芸術工科大学名誉教授)の講演録を紹介する。
はじめに
江戸時代後半、幕府の食料増産政策により、平野部や河岸段丘上に灌漑用水が引かれ、潟が干拓されて耕作地が増加。人口が増えるに従い、野生動物は人間の圧力に押され、山の奥へと追われた。だが今では、以前のように人が山や森を利用しなくなり、耕作放棄地も増えた。日本の人口も10年ほど前をピークに減少を始めている。江戸末期から大正時代にかけて、山間集落にとっては恰好の換金資源であったクマ(特に万能薬としてのクマの胆)の経済的価値は、1980年代からのバブル期以降下がり、狩猟者の数もゴルフの流行とともに減少の一途をたどった。かつて山に追われていた野生動物が、元々棲んでいた環境を取り戻しにきているのが現況だ。
また、クマが増えているから人里に出てくるという考え方はナンセンスで、人間社会は野生動物の餌を作っているのだから、黙っていても動物たちを引きつけてしまう。狩猟採集民が動物を寄せるために農耕を始めたという考え方が今あるが、「それは正解かな」と田口先生は語る。
旅マタギの狩猟イノベーション(前編)
江戸時代の後半、マタギと呼ばれる人たちが秋田の阿仁から奥羽山脈の尾根筋を歩いて、奥会津の只見や長野県の秋山郷、越中富山の立山や加賀の白山まで狩猟に出かけていました。はっきり申し上げて密猟ですね。当時の幕閣体制では、銃器を持って藩を越境すれば断首、つまり打ち首です。秋田のマタギたちが、なぜそういう危険な旅に出なければならなかったのか、なぜ猟ができたのか。
20代後半に考えたのは、まずマタギについての伝承から検証していく。それから、寺の過去帳や紀行文などの文献資料、古文書類の検証、狩猟の習俗、罠やクマ狩りの技術的側面からの検証、山言葉(マタギ言葉)の類似性、地形や植生など狩猟が行われている環境からの検証。そういうものを一つ一つ裏付けていけば旅マタギを実証できるだろうという想定をして調査を始めました。
天保10(1839)年の阿仁鉱山の古文書に、「マタギ商売」という言葉が出てきます。よそに行って現金を稼いでくる出稼ぎ猟のことをマタギ商売と書いているんです。銅を精錬するのに、岩石を溶かして銅の成分だけを取り出すんですけど、高温にするために炭を使います。その炭を秋田藩が村々に輪番制を敷いて村の若い衆に焼かせているんですが、若い衆が飢饉で暮らしていけないから炭焼きの給料を上げてくれと訴えているんです。なぜ暮らしていけないかというと、天明の大飢饉(1782-1788)が起こって、米味噌が27倍とか、塩が40倍とか、物価が跳ね上がっているんです。「佐竹様の炭を焼くなんてことをしていたら飢え死にしてしまうから、俺たちはマタギ商売に出ます」と炭焼きを断って村を出てしまうわけです。
米沢藩などは、「秋田から来た旅猟師に米や味噌を与えたら断首するぞ。同じ罪でお前らも処刑するぞ」と脅しているんですが、山の人たちはちゃんと秋田マタギを食べさせているんです。害獣に苦しんでいるから、山の動物を追い払う技術を持っている人たちがありがたいわけです。だから旅マタギを藩に突き出すなんてことをしないで、ちゃんと隠していたんですね。そういう人たちの連携っていうのはすごいなと思います。命をかけてやっていた。
只見の叶津番所(関所)に残されていた往来日記には、番所の前を通った人たち一人ひとりのことが書かれています。そこに「秋田荒瀬村猟師、万太郎組三人。熊皮一枚」って書いてある。右のもの、越国より来て、このたび帰国するので会津藩領内を通過する許可を出したと。そのあとにも秋田猟師が5人で通っている。秋田マタギを助けたら処刑するぞって米沢藩が脅していた数年後にはこうなっている。幕閣から某かの通達が出たか、あるいは会津藩から捨て置けと指示が出たのか。その証拠はまだ見つかっていません。
(後編に続く)