鈴木サナエ (すずきさなえ)
昔、旧国鉄のキャンペーンにデイスカバー・ジャパンというのがあった。「美しい日本と私」というフレーズも記憶にあったので、調べてみたら、それがこのキャンペーンの副題だったそうである。1970年代というから、もうずいぶん古い国鉄時代のコマーシャルで、「日本を再発見し、自分自身を再発見する旅」というのがコンセプトだったらしい。夫の章一もこのコマーシャルが印象に残っていたのだろう、「俺の版画のテーマはデエスカバー・ジャパンだ。」と訛った言葉で、いつまでもよく言っていた。
章一は常日頃、趣味を問われれば、「スキーと絵を描くこと」 と答えていた。絵が大の苦手な私よりは勿論、はるかに上手く、うらやましい限りだ。学生時代は美術部に所属し、映画がまだ盛りだった時代、映画館の看板を描くアルバイトで、かなり稼いだとも聞いている。しかし、日常的に絵を描く姿はほとんど見られなかったから、スキーはともかく、絵を描くことが趣味と言えるかどうか、はなはだ疑問に感じていた。
そんな章一が、一年に一回、師走も押し詰まったころ、年賀状の版画の原画を描きに、スケッチブックを片手に、あたふたと出かけていく。町内でも、曲り屋で茅葺屋根の古民家は、この50年でどんどん減ってしまっている。夏の間見おきしておいた、赤いトタンをかぶせた茅葺屋根の残る集落を廻り、雪景色を描き、版画にするのが、50年来我が家の年賀状の定番だった。その定番の雪景色には、只見の風物詩のような、なかなか味のある短い言葉が添えられることもあり、それは細かく、大変な作業のようだったが、そんなときには息をつめ、実に根気強く彫っていた。
定番以外にも人物を彫ったこともあって、あろうことか女性のヌードというのもあった。これにはさすがに、また姑のクレームがついた。「いくら何でも正月早々・・・」というわけだったが、何人かの古い友人には投函していた。イタリアや中国を旅した年は、後で思い出しながら写真を見て描いていた。その版画が、なんとなく、すっきりとしない絵になっているのは、やはり章一は何処よりも只見が好きだったのだと、今にして思う。
試し摺りをして、納得がいかないと彫り直すこともたまにはあったが、たいていは「ほら、どうだ。」と誇らしげに、いつも私に見せてくれた。
思えば、こんな時代にあって、我が家の年賀状は今までずっと、一枚一枚手作りのアナログだった。最近では、章一が学生時代一緒だった美術部の方々からの、都会的で素敵な年賀状もめっきり数を減らしてしまっている。一年に一枚とは言え、数えれば50枚にもなる版画が、全部そろっていないのが残念でならない。
「今年もまた、いつもの年賀状を心待ちにしている人が居るんだよ、お父さん。」