【きかんぼサキ】本名っ子デビュー | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ】本名っ子デビュー

2023.12.15

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 「中学に出るまで、川口(中学校がある村)なんて1回も行ったこと無かったなぁ。本名から出たのは祭りに呼ばれた時くらい。おばサ(伯母さん)の家がある西谷に行っただけだ。他に行く用もねぇし、ここで何も困ることねぇから、他に行ってみてぇと思うことも無かったのや」。

進学の時期を迎え、サキノは片道50分ほどの通学時間をかけて“川口中学校”へ入学することとなる。そこで初めて西谷、川口、小栗山、玉梨、八町といった他の村の人たちと一緒になり、新しい学校生活が始まっていく。

 スタートとなる入学式の日は、貧乏ながらもささやかにおめかしをして親と出かけたのだろうか。

「とんでもねぇ。親が学校に来るなんて小学校でも中学校でも1回も無かったな。その当時は学校に親が来たなんて聞いたこともねぇ。授業参観?みんな稼ぐんなんねぇもの、学校に来られるような暇な親なんていねぇわい!」

本名で授業参観が始まったのはかなり何年も後になってからのようだ。

 入学式当日、サキノたち同級生は初めて中学校へ向かう。大半の子が緊張の面持ちだったに違いない。親も伴わず知らない場に行くのだが、サキノたち‟きかんぼ“数人はというと、いつもと何ら変わらぬ初登校だった。慣れない道ながら無事到着すると、たちまち

「さて、おらだれどっから入んだべな?あっちか?こっちか?何だってよく分かんねぇとこだな!」「ほんとだ!」「どうなってんだ?」

あちこちの窓から上級生やら同級生が見ている中、サキノたち‟きかんぼ“数人の大声はたちまち注目を浴びる。

「すごいがな(やつ)が来たぞ!本名てぇは、きかなそうだ。声もずねぇしな」。

そう言って見ていたと後になって言われたそうだが、サキノたちが気にするはずもない。

 その頃の服装はまだ制服もなくそれぞれの格好だったという。そしてサキノは教科書など包んだ風呂敷を背負って通っていた。靴も藁のアシダカやゾウリだった。

「貧乏だからって、かすめられねぇ(バカにされない)し、恥ずかしいなんて思うこと、ひとっつも無かったな」。

サキノたち“きかんぼ”は持ち物を背負うことで、両手を常に空けておくことが鉄則だったという。それは不意に相手をやっつけなくてはならない時のため。弱い者いじめなど見つけると男の子と喧嘩になることもあったが、とっさに行動するためには両手を空けておくことが大切だった。また空腹でやむなく畑のものを頂戴する時も、すばやく行動するためにはやはり両手が自由になることが重要だった。だから風呂敷でも鞄でも手に持たず背負うことが、サキノたちの暗黙のルールだったという。

「中学校に行く途中にサツマイモ畑があってな。帰りなんて腹減ってんべ。そうすっとちっとだけご馳走になんの。生のままかじるんだが美味くてなぁ。夏はキュウリもたまにご馳走になる時あった。大根は“梨より美味いから食ってみろ!”って、持ち主からちゃんと貰うこともあった」と、当時の仲間の方が語っていた。‟きかんぼ”ゆえに編み出したルールは、様々な恩恵をもたらしてくれていたようだ。

入学式の印象が強かったせいなのだろう。少し経つとサキノたちは学校の応援団に誘われる。さらにサキノは応援団長にと請われた。男の子も上級生もいる中での応援団長だったが、断る理由も見つからない。ましてや家の百姓仕事をさぼる口実も出来るのだからありがたい。快諾したサキノは強い部がよその大会に行く時など、応援団として臨んだという。交通手段は運送会社に学校が依頼していたようだ。トラックの荷台に選手とサキノたち応援団員が乗せられ、会津高田などに向かうことがあったという。荷台には何本かロープが張られていた。道路がデコボコなので生徒たちが掴まる為のロープだった。快適とはいえない道中でも、サキノは知らない土地に行ける楽しさを満喫していたに違いない。サキノが応援団を始めてから、応援歌も作られたようだ。とはいえ、女団長サキノが気負っていた様子は全くない。

「そういえば応援歌も作ったような気がするな。どぉだ歌か?覚えてるはずあんめぇ!」

 本名に育ち本名からほぼ出たことの無かった少女。チャキチャキの本名っ子は戸惑うこともないままに、行動範囲を広げていく。