井口 恵(いぐちめぐみ)
青柳雄一さん(昭和14年生 金山町)
2022年10月1日只見線は全線運転再開となった。
旧会津線が会津川口駅まで通った昭和31年、雄一さんは国鉄職員になった。
それまでの町内の交通手段は、凸凹の砂利道を木炭バスが1日2往復しているだけだった。
当時会津川口駅より先は田子倉ダム建設の資材運搬用貨物輸送路線で、ダム建設終了に伴い路線を国鉄が譲り受け、昭和46年に会津若松駅~新潟県小出駅で只見線が全線開通となる。
間もなく、経費削減のためSL車が廃止となり、ディーゼル車に変わっていった。
「全線開通した当時から、営業係数の悪い大きな赤字路線だった。ライフラインは良くなったけど、工事の終わりで人が町から出て行った」
駅員の主な仕事は、切符売りと回収、貨物受付に積み下ろし。
地元は勤めや病院に行く人、高校生くらいで、主な乗客は電源開発の出稼ぎに来ていた人、木地師、鳶職、行商等だったそうだ。
「地元の人はめったにいねぇ」
只見線が小出駅と繋がり全線開通した頃、奥会津にも車が普及し、只見線と並行して走る国道252号が通った。
主要交通手段は鉄道から車に移行していき、地元民の利用は限られていたと語る。
雄一さん勤続30年の昭和62年に、国鉄が民営化した。
「3月31日で全員が解雇宣言された。翌日の4月1日に、採用される人には採用証が渡された。昨日まで一緒に仕事してきた半分くらいがリストラになった。採用されなかった人達が集められて、“出向”ってかたちで色んなところに行かされた。生活がかかってるからな。辛くて、厳しい体験だった…」
「夜も寝る間を惜しんで雪かたしした。冬は駅に泊まり込みが、当たり前。根性でやったよ」
進行指示機や信号のワイヤー、路線切り替えのポイントは、いつも雪のない状態にしておかないといけなかった。
「何が何でも、停めなかった。鉄道マンの意地だったな。今の只見線見てると、どこか歯がゆいんだ」
上下分離方式により再開したことで、積雪の危険回避から度々運休となる現在、かつての現場でのプライドが切なく揺らぐ。
陸の孤島だった奥会津に、鉄道が敷かれた時の感動と変化が今も地元に残っているという。
「東京が近くなった」
だからこそ、奥会津を走る只見線に誇りと希望を感じると共に、人口減が進むこの地での、只見線のこれからに不安を感じている。
「なくしてはなんねぇっていう気持ちはわかる。でもあれだけの路線を維持していくのは、これからの奥会津には厳しい。なじょしていくんだかなぁ…。分かってて再開したんなら、覚悟してやってもらわななんねぇ」
これまでの経緯と現場を知り、沿線住民や観光客の期待、財政的な負担、雄一さんの鉄道マンとしての誇りが、やるせなく交差する。
月に2~3回、気が向くと会津水沼駅に草刈りや掃除に向かう。
「今はこの駅使う人はいねぇんでねぇかなぁ。わざわざ駅来る人もいねぇなぁ」
現場の変化に懸命に向き合い、これまでの只見線を見守り続けてきた雄一さんは、優しく車両を見送る。
「苦労して鉄道敷いた。その想いは継いでもらいてぇなぁ」