【きかんぼサキ】 映画館の用心棒 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ】 映画館の用心棒 

2023.10.01

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 夕方になると、ダム工事の現場からは仕事を終えた稼ぎの人たちがぞろぞろと集落へ帰って来る。様々な職の人たちが行き交う姿に、子どもたちは驚いたり戸惑ったり…遠巻きに恐る恐る眺めていたという。中でもとび職の人たちの集団は、なかなかの迫力だった。先が尖ったシノーという鉄の棒を腰に何本もぶら下げていたそうだ。これは針金をまわして止める道具で、このとび職の人たちの集団がことさら怖かった、と子ども時代の強烈な印象を語る方がいたが、勿論それはサキノの思い出ではない。サキノは例のごとく物珍しさにきょろきょろはしてみるが、すぐに見慣れて恐れることもなかった。

 さて、この人たちが帰って来る頃から映画の上映が始まる。最初は銀座通りの中ほどに1軒だけ映画館があったが、その後、集落のはずれにもう1軒出来たという。時代劇が多かったが、後半には石原裕次郎、小林旭といった人気シリーズも始まった。映画館には年に何度か芝居や歌も来て、村の方々はそれぞれに思い出の座長の名前まで覚えている。当時最たる娯楽だったことが偲ばれる。
 とは言っても、映画館は子どもたちが盛んに足を運べる場所ではなかった。まず入場料を払える子しか入れない、ということもあっただろうが、夕方からの上映が女の子にとっては難しいことだった。夜出歩くことを親が良かれとしなかったのだ。当時子供向け映画があったわけでも無い。とにかく、稼ぎの人たちや地元の大人たちに対する娯楽が目的だったのだろう。2本立ての映画をよくやっていたが、フィルムが少なかったため本名と只見の映画館を日々フィルムが行ったり来たりしていたという。

 映画館には思いもよらない人がいた。
「まぁあれは用心棒みたいなことだべ」と語る人によると、映画館で起こる喧嘩を抑えるため、映画館の周辺に待機している人がいたという。村の中でも腕っぷしの強い人が雇われていたようだ。当時の本名では騒動は突発的にどこでも起こっていて、日々巷は物騒だった。でも入場料を頂く施設である以上、映画を中断させるという訳にもいかない。予防策ということだったのだろう。当時高校生で初めて友達と映画を観に行ったという男性は、見慣れぬ大人たちの端でドキドキしながら観ていたという。時折入り口すぐの暗闇で小競り合いが起こってる時もあり、やはり用心棒は必要だったようだ。

 入り口には木戸番の人がいて、周辺の男性何人かが雇われていたようだった。
 ある日のこと、突然木戸番の人にサキノは呼び止められ、「これ渡してくれねぇか?」と頼まれた。
「何だか分かんねぇが、オレの友達に渡してくろってな。言われた通りすぐ渡してやったわい。それからだ。オレが行くと何だかこそっと中に入れてくれて、好きに映画観ていいぞ!ってな。頼んだわけでもねぇが、フリーパスや。それから時々頼まれたの渡してやってたな。あとで分かったんだが、木戸番の人はオレの友達のこと気に入ってたようで、ラブレターの配達だったのや。木戸番の誰からなのかも、それらがどうなったかも知らねぇがな。木戸銭払わねぇで入れたが、元々観たくて観たくて入った訳ではねぇから、本気になって観たほどではねぇ。一人で観ててもつまんねぇべ。それよりみんなで観る芝居の方が、なんぼか面白かったわい!」。
 中身もきかずラブレターの配達人をする。そして大人たちに交じり、平然と映画鑑賞。用心棒が控えていた環境であることなど我関せずのサキノであったことは言うまでもない。

 サキノの周囲で淡い想いが芽生え始めていた。けれど、早熟な友との距離に気付くこともなく、サキノは変わらぬ日々を送る。そろそろ思春期に差し掛かる頃、ときめきの風がにわかに吹いていたようだ。