渡辺 紀子(わたなべのりこ)
P隊の宿舎へは、子供の足で片道40分はかかる道のりだった。サキノたち残飯娘の朝は早く、いつも5時くらいには起きて集合。1台のリヤカーを引きながら、目的の本名作業場に向かうものだった。眠い目をこすりながらまっしぐらに向かう先にある、そこは質素なバラックの建物だった。
子供の手には少し重い引き戸を開ける。すると土間のテーブルに座る大勢の男たちがいきなり現れる。横に長く置かれたテーブルに向う屈強な男たちの背中、その合間からチラチラ見えるこちら向きの男たち。向かい合いびっしり座った長いテーブルの列は、奥まで重なり合って4列くらいはあったようだった。全員が上から下まで水色の服だったこと、今でもはっきりと目に浮かぶという。サキノたちはその人たちが朝食を取る真際中に到着するのが常だった。
「おはようございます!」と一言だけ挨拶。足を踏み入れる。最初はその声に一斉に男たちが振り向くものだから、さすがにかなりたじろいだという。少し経ち、相手もその時間にやって来る子供の存在を知ると、強烈な視線を浴びせることは無くなった。足を踏み入れてまず向かうのは、奥の右端にある事務室のようなところ。事務室と言ってもただ簡単な囲いがあるだけで、そこは目の前のP隊の監視をする職員がいる場所だった。
「花子さんお願いします」と声を掛けると、たいがいは花子さんが出てくれるのだった。もちろん花子さんと言ってもそれは男性で、サキノの父とその人の間で決めた合言葉が“花子さん”だったようだ。サキノはそこで花子さんに小さな紙袋を1つ渡す。そうすると代わりに花子さんからは大きな紙袋が渡される。その中身とは…。
サキノが父から預けられた紙袋に入っていたのは、刻みタバコだった。父は“ききょう”は高いから“みのり”という銘柄を近所から買ってきていたようだった。そして花子さんの紙袋に入っていたのは、いくつものコッペパン。いつもだいたい20~30個くらいは入っていた。P隊の人たちは一日のうち一食はパンと決まっていたらしい。
「渡したタバコは花子さんがこっそりP隊の人たちに分けてあげてたようだな。とにかくP隊の人たちはタバコ吸いたがってたみてぇだから。コッペパンはその頃ここらでパンなんか食うよねぇ時代だったから、おがぁが辺り近所の人たちに配ってたんだと思う。あんまり家族で食った覚えはねぇからなぁ」。
花子さんとの物々交換はだいたい1週間に2~3回行われたという。
そのやり取りを終えると、花子さんのいるところとP隊のテーブルの間に置かれた大きな桶での作業が始まる。その4つの大きな桶に入っている残飯を、自分たちが持ってきた12個の小さな桶に入れ替えるのだ。
「こら残飯娘!まんま食ってんだからもう少し早く来るとか遅く来るとか、時間ずらしてこお(来い)」!
どこからかP隊の人の声が聞こえる。確かに食事をしている横で残飯をガラガラあけているのだから、あまり気分のいいものではなかっただろう。でもサキノたちは帰り次第登校しなくてはならない。「帰って学校行かんなんねぇだから、そんなわけいかねぇ」と、サキノは答えていたという。
「子めらだからそう怒るようもねぇと思ったんだべ。みんな渋々食ってやったな。」
なんと、P隊に怒鳴られても言い返しつつ作業を続けていたようだ。とにかく必死だったのだろう。
ちなみにサキノ以外の残飯娘は怖くて作業所の中には入れず、入り口で待っていたことがほとんどだった。怖くないはずがない。サキノも怖くなかったと言えばウソになるだろう。でも、サキノは皆を連れてきた張本人。泣き言は言っていられない。何より我が家の動物たちにいい餌があげられるのだ。怖さはたちまち感じなくなってきたという。
昭和27年9月5日にP隊が入ってきて、29年6月12日に本名作業場が閉鎖するまで、残飯娘は通い続けた。いつも6時からの朝食時間の頃に訪ね、決められた手順を済ませ立ち去る。この作業をただひたすらに繰り返していたのだ。
働き者のサキノの姉たちだが、この残飯娘だけはやろうとしなかったという。
「残飯娘なんて恥ずかしいからやんだ!って言ってな。年頃だったからなぁ。オレは恥ずかしいなんて、ひとっつも感じなかったけどな」と。
本名作業場が意外なほど厳重ではなく、残飯娘たちも入れたこと。P隊の人たちとの距離がかなり近かったこと。P隊と職員の間に信頼関係を感じたこと等々。当時の情景の一コマが、人々の息づかいまでも感じられるように見えてくる。ダムのふもとの村ゆえの特異な背景のなかでも、サキノたちの生きるための日常は変わらず続いていたのだった。