鈴木 サナエ(すずきさなえ)
一昨年の3月、山形県米沢市の郊外から、遠くに、鋭く真っ白に輝いている形のいい山が見えた。それが東北のマッターホルンと呼ばれている祝瓶山(イワイガメヤマ、1417m)だった。私は雪が解けるのを待って、早速、登ってみることにした。奥会津只見の蒲生岳(828m)に比べると標高は遥かに高いから、距離もあって時間もかかったけれど、遠くから眺めるほど急峻な所もなく、さほど苦労なく登れた。世界的なクライマーの田部井淳子さんが「会津のマッターホルン」と名付けた蒲生岳だが、私には東北のマッターホルンよりはるかに険しいと感じている。山頂からは眼下に今人気の只見線が走り、只見の町が箱庭のように眺められる。そんな蒲生岳の、楽しかったり、可笑しかったりの私の登山エピソードを記してみたい。
・・・エピソード その1・・・
もう30年以上も昔のことになる。秋晴れの土曜日、娘の小学校の先生方と、私達PTA役員数名、かねてからの計画通り、蒲生岳に登った。午後から登山の予定は、結局登山開始も随分遅くなってしまったが、みんな若いからスイスイ登り、登頂は何時だったろうか、すぐにシートを広げ、宴会となった。楽しい時間は短い。気がつけばつるべ落としの秋の日が暮れようとしていた。大急ぎで撤収して、下山開始の頃は日がとっぷりと暮れていた。それでも準備のいい人はいるもので、私達はたった一つの懐中電灯を頼りに、大笑いしながら、転げるように山を下りた。とにかく、ニュースになるのだけは避けねばならない、と暗黙の心配事も杞憂に終わり、下山を待つ校長先生をホッとさせた。若い先生の明るい笑顔と、白っぽいスラックスのお尻が泥だらけだったことを楽しく思い出す。
・・・エピソード その2・・・
勤め先の関連の会社のOさんから、山が好きなので蒲生岳に登りたい、とお誘いを受けていたので、一緒に登ることにした。登山開始の頃は饒舌だったOさんが、だんだんと寡黙になり、ちょっとした岩場の前で、とうとう立ち止まってしまった。そしてあろうことか「ここで待っているから一人で登って来て」という。その岩場は、今は足場が切ってあり、登り易くなっているが、当時は自然のままなので、怖いといえば怖い。それにしても山頂はまだまだ先なのだ。山が好きって、一体どういうこと、と困ってしまったが、とにかく一人で登頂し、急ぎ引き返した。私の顔を見た瞬間の、待ちくたびれて、ほっとした表情のOさんの顔が忘れられない。
・・・エピソードその3・・・
やはり勤め先の関連会社のお偉いさんが、出張のついでに蒲生岳に登りたいから、とガイド役の要請があった。山に登りたいなどというもの好きな社員は他にいないから、私に白羽の矢が立ったのだった。責任上、当時の所長と3人で登ったのだが、ただただ山頂まで急いで登り、急いで下山して、ほとんど会話もない登山だった。私は本格的な登山の経験は一度もないが、山はどんな山でもそれなりの魅力があって、退屈することはない。その時々のメンバーにも支えられて登って来た。いろいろな登山のスタイルがあっていいとは思っているのだが、この登山だけは、なんで山に登るのか、登りたいのか、私にはお偉いさんの気持ちがさっぱりわからなかった。勤務中に山に登れたのは私にはラッキーだったが、大汗で重いビールを担いだ所長が気の毒だった。しかし、せっかくのその冷たいビールを飲んだ記憶さえない。
・・・エピソード4・・・
郡山に住む娘夫婦と、保育所年長さんと小学2年生の孫二人が、何を思い立ったのか蒲生岳に挑戦する、という思いがけない知らせに、私も喜んでついていった。もちろん、孫二人にとっては、登山は初めての経験だった。山開きの日なので、皆さんに励ましや称賛の声をかけて頂けたのも嬉しかったのだろう。天気にも恵まれて、急斜面も難なく登り、終始元気いっぱいである。婆(ばば)の欲目には、虫を見つけては、はしゃいでいる観察力の優れた小学生に映った。案じていた下山も「ジェットコースターみたい!」と臆するどころか大喜びなのには、さすがに男の子、と感心してしまった。
孫達は蒲生岳がよほど楽しかったらしく、その次の年には浅草岳にも登り、数年後には燧ケ岳にも登った。
今は社会人となってしまった孫たちは、山は遠のいてしまった様子だが、いつかまた山に取り付いてほしいと願っている。
昨年、トレーニングのつもりで、久しぶりに蒲生岳に登った。やはり、お年頃なのか、思いの外、きつい登山となった。
ガスっていて、山頂からは何も見えなかったが、初めてコオニユリが咲いているのにも出会えて、下山コースのブナ林は息を吞む美しさだった。トレーニングにしては贅沢すぎる山行となった。