【きかんぼサキ】 残飯娘 受刑者のもとへ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ】 残飯娘 受刑者のもとへ 

2023.08.01

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 ダム建設工事で、本名集落はかつてない活気に溢れていた。東北電力やその関連会社、間組や前田建設といった大手建設会社の社員たちが、大勢村に入ってきていた。しかし、この短期間での突貫工事を成し遂げられたのには、その人たちとは全く別の存在があったことも、忘れてはならない。それは、宮城刑務所に収監されていた受刑者たちの存在だった。彼らが構外作業という形の出役で、厳しい作業にあたっていたのだ。そして、彼らは驚くほどの働きぶりで貢献してくれたという。

 初めてその人たちが本名に送り込まれたのは、昭和27年9月5日のこと。職員22名、受刑者220名という人数だった。その人たちの現場事務所兼宿舎(本名作業場)は、集落のはずれにあった。受刑者の刑期は、大体が3年6カ月くらいの人たちで、平均年齢は30歳くらいの人たちだった。もしものことを考え、性犯罪者は除いた人たちで構成され、その人たちのことを、村では次第にP隊(Pはプリズン(刑務所)の略)と呼ぶようになる。(※1)

本名作業所・春(靑木忠志さん 提供)

 そうした人たちが村に入って来ることで、やはり様々なうわさが飛び交い、これまで経験したことのない緊張感も漂っていた。
「おっかねぇ人たちが来んだと!気いつけんなんねぇ。あっちの方(本名作業所の辺り)には行ってなんねぇからな」。こうした話はあちこちで聞かれるようになった。そしてそれに伴い、村にはそれまでにない数の保護司が置かれることになったという。
 サキノの家の前の焼き鳥屋は、村の人、よそから来た人と、いろんな人たちで連日賑わっていた。その頃には、もっきり飲み屋の豆腐屋はやめていたので、サキノの父は今度は焼き鳥屋のお客さん相手に日々過ごすことになる。たまたまそのお客さんの中に、本名作業場の職員がいたという。何百人もの人たちが、日々そこで寝泊まりし食事を取っている。そこの人と親しくなるうちに、ふと思い立ったのだろう。
「サキ、P隊のとこに残飯もらいに行ってみっか?」。
ある日何気なく父が言ってきた。サキノは相変わらず、豚の残飯集めに日々飛び回っていた頃のことだ。
「そこ行くと山ほど残飯あんだべ?行く行く!!!」。
サキノは即答だった。しかし、このときのサキノがP隊を知らなかった訳ではない。村の大人たちは、当然子供たちにも警戒を呼び掛けていた。そんなことは百も承知でこの答えなのだ。相変わらずのサキノだが、こうした話を持ち掛ける父親にも面食らう。
「自分は稼げねぇが、行ってもらえたら助かると思ったんだべ」。
この父に頼られながら、サキノのきかんぼ魂は益々大きくなっていったような気がする。
 当時、家畜の餌や田畑の肥料として残飯を必要とする人でも、飯場で譲ってもらうことがせいぜいだった。大人であっても、さすがに受刑者の元へ行ける度胸のある人はいなかったのだ。若干10歳の女の子が、それからまるで日課のようにP隊のところへ残飯を貰いに通うこととなる。サキノは、誰か一緒でないと不安で行けない訳では無かったが、沢山の残飯を持ち帰るには、積んだリヤカーの操作がどうしても一人では難しかった。そこで、いつもの遊び仲間に協力を依頼することとなる。
「行って貰ってくるだけだも、何にもさすけねぇって。それにP隊の人たちはタバコは吸ってなんねぇらしいから、飯場の残飯みてぇにタバコよけたりする手間もかかんねぇだぞ。楽でいいべ!おっかねぇ、恥ずかしいなんて言ってねぇで、いっぺんに(一緒に)行くべ!」。
怖さと恥ずかしさで嫌がる友たちを、渋々ながらも説得してしまったようだ。
こうして、晴れて“残飯三人娘”が誕生する。
 立ち入ることなど有り得ない場所に日々足を踏み入れながら、サキノはまたも忙しく残飯集めをこなしていくこととなる。
「一番おっかねぇことは、まんまが食われなくなること。それ思ったらP隊だってなんだって行くんなんねえべ!」。たくましく言い放つ。
そうは言うものの、サキノたちが怖い思いをすることは本当に無かったのだろうか。作業場の中は、いったいどんな状況だったのだろうか。予想がつかない未知の世界。せっかくなのでもう少しのぞいてみよう。残飯娘は次号につづく…

※1  柴修也『只見川電源開発の記録』(平成23年8月1日発行)