渡辺 紀子(わたなべのりこ)
サキノが生まれて(昭和17年)から小学校に通う頃まで、この小さな村の人たちは何も変わらぬ毎日だった。しかし同じ頃、巷ではここ只見川筋をめぐり熾烈な議論が湧き上がっていた。それは、国のエネルギー政策にも関わる議論だった。大きな組織同士が重大な問題を掲げ、何年もの闘争の日々。村の生活からはあまりにもかけ離れた動きを、当の村の人たちがどれ程知っていたのだろう。当然幼いサキノたちは知る由もなく、いつも通りの日常だった。そんな普通の毎日に激動の兆しが現れたのは、サキノが小学校3~4年の頃だった。
ここで、まずその頃の巷の様子がどんなことになっていたのか?元東北電力の社員だった大島達治氏の回想録が、当時をよく物語っている。その方は東北電力に入社してすぐの昭和27年、最初の赴任地が会津坂下町の片門発電所だったという。この記録を参考に、ざっと振り返ってみることにする。
「日本発送電(株)が東北電力(株)となり発足したのが昭和26年のこと。「日本の光は東北から」というスローガンのもとで、只見川の電源開発に乗り出してくる。そもそも昭和17年、日本発送電は只見川一貫開発計画に関心を持ち、戦後21年には原案が出来上がり、調査隊が山に入っていた。この過酷な調査を踏まえ、また翌年には具体的調査を経て、23年に本流沿いの大規模開発が可能であり最も効率的であると、日本発送電より正式に決定発表された。しかし、この決定で東北電力がスムーズに開発に着手出来た訳ではなかった。水利権では東京電力と東北電力が、開発方式では分流案の新潟県と本流案の福島県が、何年もの闘争を続けていった。水利権、開発方式ともに決着したのは、昭和29年だった。この問題には、時の吉田首相が解決に当たるという大きな問題であったという。」(大島達治『技術放談~米寿の娑婆に学ぶ』平成27年5月発行)
こんな動きのなかで、只見川は日本の電源開発の立地地域として、いつの間にか大いに注目を集めていたのだった。
サキノが暮らす本名集落は、まさしくダム建設予定地のふもとの村だった。いつの時代もこうした大きなビジネスの情報は、いち早くキャッチする人がいるもので、ダム建設が始まる数年前に、本名であらたに温泉を掘った人がいたという。いわきから来た人だった。掘った温泉は「日の出温泉」といい、集落はずれの集落からは下った只見川の川べりにあった。
当初は屋根もなく全くの露店風呂だったが、少し経つと下る階段にも露天風呂にも屋根が掛けられる。そして、高台の平地では旅館も始まるのだが、サキノの叔父夫婦が、その旅館に管理人として住んでいた。
「ふがんのう温泉(※)っていうとこなんだが、おじさんがいたから言付けとか、これ持ってって渡してくんだぞとか親から頼まれて行ってたのや。最初行ったときは、たまげたなぁ。すごい門構えで、まるで竜宮城のようなとこなだぞ。中にいる女の人も透き通るように上品でなぁ。ここらでは見たことねぇ人たちだった。世の中にこんな夢のような国があんだ!って生まれて初めて思ったな」。
今にして思えば、そこが最初の村の迎賓館だったのかもしれない。こうした開発計画の最中で、沢山の関係者の接待合戦がそこで繰り広げられていたのではないか、そんな想像が頭をよぎる。でも、ここでもサキノは竜宮城を見るのが嬉しくてたまらない。
「そんなとこは子めらなんかは、やたらと行かれねぇとこや。でもオレは用足しがあっから堂々と行かれる。したがら、友達も連れてって見せてやったりしたのや。中に入るのはそうは出来ねぇが、外から見ただけでもすごいから、みんな喜んでくれたのな」。
サキノはきっと“オレに付いてこい!”といつもの親分気取りで、未知の世界への先導役をしていたに違いない。得意満面に。
さて、こんな驚きも冷めやらぬうちに、本名は次々と見たこともないような人やものが押し寄せる村に変わっていく。それはまるで突如訪れた文明開化。竜宮城はほんのプロローグにすぎなかったようだ。その怒涛の日々を、村の人そしてサキノはどう受け止めていったのだろうか。
これまでと全く違う日常に一体何が起きるのか、それはこれからこれから…
※サキノや村の人たちは「日の出温泉」のあたりを「ふがんのう温泉」と呼んでいるが、旅館を作ったときに名前を変えたのか、正確なところはわからない。