【奥会津探訪】「火伏せの神」の迫力 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

【奥会津探訪】「火伏せの神」の迫力 

2023.07.01

須田 雅子(すだまさこ)

(写真提供:花泉酒造株式会社)

 2008年、会津田島駅から昭和村を経て只見町まで自転車で走り、只見町の「ますや旅館」に泊まった。峠越えを含む慣れない長距離サイクリングにヘトヘトになり、翌日はサポートカーに載せてもらった。

 途中、立ち寄った南会津町南郷地区の「花泉酒造」の建物は改築中で、中を見せていただけた。歴史を感じさせる重厚感のある建築だ。急な階段を上がっていくと、薄暗い屋根裏にとんでもないものがあった。

 それは、木彫の巨大な男女の性器で、互いに向かい合うようにして設置されていた。囲炉裏の煙に燻されて妖しく黒光りしたそれは「火伏せの神」で、子孫繁栄の呪物でもあると聞いた。物凄い迫力だ。日本の庶民というのは、こんな力強さを秘めていたのか。学校で教わった日本の歴史には、そんなもののことは一切書かれていなかった。歴史の中で庶民はいったいどんなふうに生きてきたのだろうと気になり始めた。

 2009年、会社勤めの傍ら通信大学で勉強を始めた。その頃、京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)通信教育部の芸術学コースは「地域学」が充実していて、『東北学』のテキストには、火伏せの神のことも書かれていた。地域学のスクーリングでは、花巻で宮沢賢治のことを学んだり、津軽の「お山参詣」で岩木山に登頂してご来光を眺めたり、宮崎県の山奥の銀鏡で夜通し銀鏡神楽を見たり、河原で猪の頭を焼く「ししば祭り」を見学したりした。岡本太郎の東北文化論や沖縄文化論にも感化された。通信大学に入る前は、旅をしても田舎の景色を眺めて満足しているくらいだったが、日本各地に地域の風土に根差した昔ながらの暮らしや文化が色濃く残っていると知り、驚かされることばかりだった。

京都造形芸術大学通信教育部のテキスト『東北学』
(編集責任 赤坂憲雄・菊地和弘 2004)

 20代の頃は、日本が面白くなくて海外に飛び出したので、1990年代の半分近くは海外で過ごした。40歳を過ぎて、遅まきながら日本の面白さに気がついた。2011年3月11日の東日本大震災の時は、東京の会社にいた。墨田区のマンションの部屋も被害がなかった。翌日、余震の強い揺れが続く中、一人、部屋で不安な時を過ごした。テレビに津波による東北の被災状況が次々と映し出される。自分の無力さを思いながら、なぜだかその時「いつかは東北の人たちのことを書きたい」という思いが湧き出てきた。それなのに、その後、スーパーで売られている福島産の安い野菜を買うのをためらうようになっていった。