目黒 章三郎(めぐろしょうざぶろう)
【山ノ内七騎党宗家・横田山ノ内家(その4)】
伊北・金山谷の最後の領主・氏勝は慶長9年(1604)69歳で没した。そして孫となる大介と弥々千代2人が、越後の家臣目黒市左衛門によって横田の旧臣横田善九郎俊光に養育を託された。これは、氏勝の遺言により横田に戻されたものと思われる。しかし、長男大介は、理由は定かでないが自害してしまい、次男の弥々千代が元服して助三郎俊名(としなが)と名乗り家督を継いだ。
ここから、「忠誠連判状」のことなど旧家臣の忠義の厚さを記述する。
明暦元年(1655)、旧家臣たちは俊名を会津藩に仕官させようと旧横田山ノ内氏領地に在住する名主クラスの56人の署名連判と資金を集め、訴訟(今でいう請願)を藩に願い出る。訴訟の文面には、「我等譜代の臣、今に至るも君臣の分を失い申さず」とあり、奥州仕置から66年が経過して、実態は百姓身分になっているにも拘らず今なお主従関係を続けているというのである。また、「我等が思い叶えられ候暁には、如何様なるお役仰せつかるとも苦しからず、君臣共に相励み申すべく候」まで言い切っている。(藩としても「無給で」家来を増やすことと同じになる。)藩は俊名の身元を改めて調べ、翌明暦2年(1655)会津藩に10石10人扶持で会所(藩の事務所)勤めという「軽輩」ではあるが仕官が叶った。
俊名は、旧臣を統括するための十箇条の掟を作り、毎年1月12日に若松城下に旧臣代表を呼び読み聞かせた。これは、会津藩が瓦解する慶應戊申4年(1868)まで続いた。「御恩」(所領安堵)の権限は既に無いのに、一方的な「奉公」だけの不思議な「主従関係」が続いた。
十箇条の掟の主な内容は以下の通りである。
・六十里越、八十里越の関所を固く守ること
・職業(百姓)を大事に勤めた余力で武用の心掛けをすること
・不時の変の節は、山ノ内家屋敷に遅滞なく駆付け下知を請うこと
※江戸時代、御蔵入りでは制度上百姓の身分なのに名字帯刀が「当たり前」だった習わしは、この掟に裏付けられている
しかし、俊名は、22年後どうにも10石10人扶持では生活が成り立たずと、藩に致仕の意向を示した。藩は、5石1人扶持加増を示したがそれでも考えは変わらなかった。ここで、延宝6年(1678)、再び旧譜代が署名連判408人をもって藩に加増を願いに出た。更に、親族(桧原山ノ内氏の系譜)であり保科正之公の侍講であった横田俊益が宗家の窮状を見かねて藩へ申し出た。藩も対応に苦慮し長引いたが、ついに貞享2年(1685)100石取りの士分に取り立てられた。
「忠誠連判状」はこの後も続く。
宝永元年(1704)俊名の嫡子俊方の代となって、妹「ふさ」の不義密通(実態は町人との艶文のやり取り程度)による監督引き届を理由に、家禄召上げ・所払いという大事件が待ち上がった。この時は、旧臣590余人が「いかような御用仰せつけられ候とも、相勤め申す」と願い出て許された。また、その子豊房の代には、嫡子無しという理由で再び家禄召上げとなった。これも、旧譜代が訴訟(藩に訴え願い出る)すること十数度。そして、正嫡は俊名の外孫・俊陣(としのぶ)を持って藩に認められた。そして、旧臣が俊陣に「忠誠連判状」(680人)を差し出した。忠誠連判状の人数が、出すたびに大人数になってきている。
これ以降、山ノ内家の代替わりの度に旧主に「忠誠連判状」を差し出すのが例となり、事実この後、山ノ内旧譜代は、各種騒動や、日新館建設への寄付、蝦夷地警護、戊辰戦争時の出陣などで活躍する。何という律儀な民であろうか。
その中で、幕末慶應3年(1876)7月 横田山ノ内家旧臣の会津藩への願書を紹介する。
「山ノ内大学古家来筋の者 叶津・田子倉両関所固めの儀願書」を提出し、横田山ノ内家(本家)に600数十人が決起した。この時の当主は、大学知通(ともみち)で、藩の執政を務め、戊辰戦争後の斗南藩では、山川浩大参事の下で少参事として活躍した。

※俊陣の孫の俊温(としなが)(1778~1844)について若干触れる。藩の大目付の後学校奉行となり(日新館総取締を併任)400石に加増された。「新編会津風土記」(文化6年(1809))の編纂作業に加わり、特に旧山ノ内領内の歴史的なことを旧臣に依頼したという。
ここで、山ノ内氏の「主従の絆=御恩と奉公」ついて、金山町史と「忠誠日本一」(栗城正義著)を参考に考察する。
・山間地で平地は極めて狭い環境のため、400年もの間、山ノ内主従間では一体とならなければ生活自体が不可能だった。
・土地が狭く家臣に宛行いが十分でなく、山ノ内支配では貨幣経済の依存度が高い。貨幣収入は、ほとんど領主からの支給で、家臣団は隷属せざるを得なかった。
・山ノ内氏の支配後、伊達・蒲生・上杉・加藤の領主は「近世を成立」させ得ないうちに交代した。その後も御蔵入地として、幕府も会津藩も、徹底した組織支配を貫徹させることができず、それが中世の「山ノ内体制」の気風のまま、近世を通じて残存させた。(※江戸時代中も地域内では名字を名乗り、武具を所持していた。)
・領民は、山ノ内時代の田畑の耕作権、山林の所有権など既得権はそのまま継承されていた。
・旧譜代の領民は、江戸時代も疑似的な「士分」というステータスに誇りを持って
いた。
<付記>
城下地図から「山ノ内大学(知通)」の屋敷を見つけた。 この地図は、嘉永七年のものとされている。 (俊温(としなが)が学校奉行の際、400石に加増されたということだが、何故180石となっているのは分からない。職付きに対する加増だったのかもしれない)

※ 余禄として、ダンスボーカルグループ「TRF」で活躍したSAMについて紹介する。これは、平成30年(2018)11月26日放送のNHKファミリーヒストリー「SAM『医者の家系』」から。

埼玉県羽生市に横田家が在住する。この家は、新編武蔵風土記(榎戸村=現鴻巣市)の旧家の欄の筆頭に、屋号「半十郎」として会津山ノ内氏以来の来歴が記載されており、寛永11年(1634)より居住とある。
その横田家に伝わる家系図を辿れば、
氏勝~氏重(氏勝次男・横田大学)~氏澄(初代眼科医)~氏秀~氏清~氏純~氏昭~玄庵 (将軍家奥医師土生(はぶ)玄碩(げんせき)の一番弟子)~五郎(玄庵次男)・丸山よ弥(よね)と結婚(婿養子・明治29年同年丸山医院開業)~正~正義(総合病院に拡張)~正温(まさはる)(SAMの本名・正義次男)と繋がるのである。
つまり、伊北・金山谷の最後の領主である氏勝次男の横田大学の息子が医者となり、その子孫が丸山家に婿養子と入り、今ではさいたま市岩槻の大総合病院に発展した。
これを縁に、SAMには、金山町や只見線でダンス教室などの催し、また丸山記念総合病院には、金山町に医療施設や養療施設などの施設を誘致できないかと思う次第である。
(NHKの番組写真『家系図』)
以上で、横田山ノ内氏は今回で終了する。次回は、野尻山ノ内氏について。