目黒 章三郎(めぐろしょうざぶろう)
【山ノ内七騎党宗家・横田山ノ内家(その1)】
源頼朝の奥州平定(文治5年1189)により、それまで磐梯山慧日寺の勢力だった会津地方は、会津四家(山ノ内・佐原(芦名)・長沼・河原田)と呼ばれる頼朝家臣に与えられた。山ノ内氏初代は経俊(つねとし)といい、領地は、会津郡伊北郷(只見町と金山町の一部(橋立以西))、大沼郡金山谷(金山町、昭和村、三島町、柳津町西山地区、同郡尾岐郷(美里町永井野、冑、東尾岐)~また、後年越後国蒲原郡15ヶ村、魚沼郡50ヶ村を支配した。
天正18年(1590)、秀吉の奥州仕置きで所領を没収されるまで、約400年当地を治めた。最後の領主(13代)の名を氏勝というが、近世期における石高に換算すると、山ノ内七騎党全部で2万1600石になる。そのうち、横田の宗家だけで4割近くを占め、他の分家より群を抜いて多かった。

横田の本城は中丸城という山城である。麓に館を構え、現在も周りを土塁で囲われている。この他、6ヶ所に固(かため)城(じょう)を作っている。大塩中山城(金山町)、只見水窪城(只見町)、和泉田川原崎城(南会津町)、梁取窪城(只見町)、崎杉山城(所在地不明)、布沢城(只見町)で、それぞれ支族や重鎮を城主とした。更に、掻揚(かきあげ)や柵(持柵(もちさく))といわれる砦は領内に数十設けられ、防御ネットワークとした。

鎌倉時代以降は、当地ではあまり歴史上の出来事も少なく約300年間は比較的「平穏」な時代だったといえるかもしれない。しかし、徐々に律令体制が崩れ寺社勢力が武家に圧倒されるようになり、また武家同士も下剋上や同族・親子間が争う戦国の時代となった。1500年代の会津も例外ではない。大大名に囲まれた山国の小領主の「処世」について、小説やドラマなどで信州の真田氏のことがよく取り上げられるが、山ノ内氏も例外ではない。
山ノ内氏に残っている古文書に、享禄3年(1530)越後の長尾為景から舜通宛ての書状がある。これは、守護である上杉氏と守護代長尾氏の争いの一環で、加勢を依頼されたものである。書状には、加勢を承諾されればその御礼として所領の一部を分け進ぜると。長尾氏がこの後守護の上杉を名乗るが、書状にある誘いというのは、山ノ内氏を会津の独立勢力として扱い、芦名氏への接近・服属を牽制し、むしろ上杉氏の会津侵攻の先兵にする、また防塁に組織しようとする狙いがあったものとうかがい知ることができる。
天文12年(1543)、世にいう「横田くずれ」が起きた。これは、黒川(会津若松)を拠点とする芦名盛舜(もりきよ)・盛氏(もりうじ)の代に、山ノ内俊清(としきよ)・舜通(きよみち)親子を攻略した戦いである。芦名氏は、佐原家から分かれた同族が時代とともに勢力争いがあったが、芦名氏宗家に収れんされた。芦名氏は盛氏の代になると最大の勢力となり、会津平坦地から仙道(中通り)の安積・岩瀬両郡の大半と石川郡の一部も手中にした。
会津地方においては、田島の長沼氏は臣下となり、従わなかった伊南河原田氏を攻めた後、横田へ侵攻した。この戦いで、山ノ内俊清・舜通は、越後の長尾氏を頼り逃れた。長尾景虎(後の謙信)の周旋で、芦名氏の旗下に入った。そして、その時の条件として、三島町大谷川以東の割譲、人質として一族の沼沢山ノ内氏から政清(当時4歳)と本名(ほんな)杢允(もくのじょう)を黒川に送った。(※政清は後、沼沢出雲実道として芦名氏の元で活躍し1000石の武将になる)
山ノ内氏の芦名氏における処遇は、芦名一族より下だが、もともとの芦名家重臣より上席であったと。しかし、この後も山ノ内氏は、常陸佐竹氏、越後上杉氏、遠く甲斐武田氏等とも不即不離の関係を保ちながら中道独立路線を歩もうとしていた。それは、いわゆる「両属」というものではない。
続く~
(次回は、伊達氏との攻防、奥州仕置き、江戸期の『忠誠連判状』についてなど)