福島県河沼郡柳津町「池ノ尻(いけのじり)遺跡」出土
連載第一回
柳津町文化財専門アドバイザー 長島雄一
1 発見とその後の経緯
この土器は2002年頃、柳津町北部に位置する細越地区の池ノ尻遺跡から畑の耕作中に発見され、2004年頃に町に寄贈されました。その後18年間、やないづ縄文館内で保管されたままでしたが、2022年8月に再発見されたものです。その後、石膏による仮修復を行い、2023年4月から元興寺文化財研究所(奈良市)において土器の強化・復元作業が行われました。そして2024年4月から、やないづ縄文館、7月からは福島県立博物館そして9月から再びやないづ縄文館で展示・公開されています。愛称は遺跡名から「イケちゃん」となりました。
2 土器の概要
【時期】文様・器形等の特徴から縄文時代中期中葉(約5000年前 大木(だいぎ)8a式)の土器と考えられます。
【大きさ】
土器の口径は37.0㎝、胴部最大径57.6㎝、残存高は38.7㎝です。口頚部(こうけいぶ)は全周の約3分の2が残存し、胴部以下は欠損していますが、全体の器形としては口頸部が内弯(ないわん)する樽型の深鉢形土器で、器高は約80㎝と推定されます。
【人体像】
人体像は二個一対(写真の左側を人体像A、右側を人体像Bとする)を成し、顔を土器の内側に向けた状態で、口頚部付近に取り付けられています。全体としては顔面を表現した頭部・胴部・腰・肩・両腕及び手・指まで観察されます。
①外側:2つの人体像には共通点が多く見られます。人体像の大きさはA・B共に高さ約17㎝と同じで、共に頭部からやや膨れた胴部下半へと移行し、この位置にあるS字文の中に2つ、最大径部直下に1つ、計3つの盲孔(もうこう)が開けられています。人体像胴部の下端付近は左右共に土器の文様(隆帯)へとスムースに連続して収束します。
人体像の顔面はやや上を向いていますが、向き合う人体像を互いに見ているようにも見えます。胴部上半と下半の2箇所は、いずれもブリッジ状を呈しています。人体像の首元には左右対称の2つの渦巻文、背部の中央には背骨を表すかのように沈線を沿わせた直線状の隆線が観察され、左右に水平に張り出した両肩の先端には中央が窪んだボタン状の貼付文、さらに肩から下方に腕がまっすぐ伸び、土器面に接した手のひらへと移行します。手のひらには短沈線で区切った指の表現がなされています。また2体とも手首付近には隆帯による腕輪状の表現が見られます。
両者の相違点としては、人体像A胴部の両側面には沈線(ちんせん)が施されるのに対し、Bにはその表現がないこと、また人体像B下の土器本体の表面には縄文と沈線の文様が残るのに対し、人体像Aでは消去されている点がありますが違いはわずかです。
②内側:人体像頭部の内側には顔の表現がなされています。顔は顎が尖る逆三角形で、やや太めの短い沈線で両目と口が描かれ、鼻と眉は短い粘土紐の貼り付けによって表現されています。これも人体部A・Bに共通する特徴です。
③頭頂部:平坦な頭頂部には細い粘土紐の貼り付けによる渦巻文が施されています。渦巻文は中心から外に向かって反時計回り、耳飾りと考えられる両側面のボタン状の貼り付けもA・B両者に共通します。
【突起】人体部と90度の位置にある口頸部付近には、中央に大きな突起を施し、その左右にやや小ぶりの円筒状突起が一つずつ配置されています。中央の突起の詳細は欠損により不明ですが、酷似する郡山市妙音寺(みょうおんじ)遺跡例を参考にすれば、左右の円筒状突起よりひと回り大きなブリッジ状の把手だった可能性が高く、土器の向い側にも、こうした大形突起・円筒状突起のセットが取り付けられていたと推定されます。つまり口頸部には人体像と大形・円筒突起のセット二種一対がそれぞれ直線状に配置されていたと考えられます。
【文様】内弯する口頸部外面には、まず地文(じもん)となる縄文が施された後に、細い粘土紐の貼り付けによる平行文やクランク文・二重の対向する半円孤文などが描かれています。胴部も縄文を地文とし、その後に三本一組の縦方向の沈線文や渦巻文などが一本ずつ施されています。こうした要素は基本的に東北系の大木式(だいぎしき)土器(大木8a式)の特徴であり、樽型の器形も縄文時代中期の本地域の土器の中に系譜を持ちながら存在するものです
*池ノ尻遺跡から出土した人体像把手付土器(土偶付土器)は、やないづ縄文館で展示・公開されています。また精細な画像は、以下から閲覧することができます。
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https://openokurairi.net/s/open_okurairi/item/1335#lg=1&slide=0