柳津町「石生前(いしゅうまえ)遺跡」の再整理から見えてきたこと ㈠ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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柳津町「石生前(いしゅうまえ)遺跡」の再整理から見えてきたこと ㈠ 

2024.03.01

長島 雄一(ながしまゆういち)

私は2022年6月から、柳津町の依頼を受けて「土器とくらしのミュージアム~やないづ縄文館」で、同町石生地区にある石生前遺跡の追加整理作業を行っています。
柳津の歴史はどこまでさかのぼるのか? 町内には計12箇所の縄文時代の遺跡が分布していますが、1987年と1995年に行われた石生前遺跡の発掘調査が、その答えを出してくれました。

やないづ縄文館2階の土器収蔵庫 
土偶・顔面突起など  縄文時代の柳津人の顔?(全て石生前遺跡)

石生前遺跡は今から約5000年前を中心とした集落跡で、考古学的に言うならば縄文時代中期前葉~後期前葉の集落です。中心時期は世界遺産となった青森県三内丸山遺跡と同じ中期中葉頃です。間断なく、およそ1200年続いたムラで、遅くとも約5200年前に、柳津町では人々が大きな集落を営みながら住んでいたことが明確になりました。ただ、約5400年前に大噴火を起こした金山町沼沢火山の堆積物の下に、柳津でも、石生前遺跡より古い時代の遺跡が眠っている可能性は大いにあります。
石生前遺跡の発掘調査では竪穴住居跡が少なくとも44軒以上、また多くの貯蔵用の土坑(どこう)(穴)、狩猟用の落とし穴、そして粘土採掘用の可能性がある土坑などが検出されています。そして約700箱分という膨大な量の土器や土偶などの土製品、新潟県糸魚川産と推定されるヒスイの大珠を含む石製品や石斧・石鏃などの石器類も多数見つかりました。土器の中には新潟・北陸・東関東など、遠く離れた地域とも交流していたことを示す資料も多く含まれています。そして1991年と1996年には発掘調査報告書が刊行され、1994年に出土品は、その重要性が認められて福島県指定重要文化財となりました。

深鉢形土器(縄文中期中葉 約5000年前)
ヒスイ製大珠(縄文時代)

           
        
一昨年から始まった整理の結果、今まで未報告だった注目すべき遺物が見つかっています。例えば縄文人の指の痕が残り、土器作りの証拠にもなる粘土の塊(「焼成粘土塊(しょうせいねんどかい)」)や人面を表した土器の把手や新たな土偶、土器編年(移り変わり)上、重要な情報を持つ土器などです。総合して考えると、石生前遺跡は只見川流域で最大級の拠点的な中期のムラで、集落間ネットワーク上のターミナル的な役割を果たす役割も持っていたと考えています。