菅家 博昭(かんけひろあき)
2024年1月7日、栃木県小山市の寺野東遺跡公園を訪ねた。縄文時代中期から後晩期の環状盛土遺構・水場遺構が検出された著名な遺跡である。弓、櫛(くし)などの漆製品、編物片、種子や木材などが見つかっている。
湧水点の谷部に15基の木組遺構が検出され、谷の利用は縄文後期初頭、後期後半から晩期までの木組が明瞭となる。最大の遺構はクリ材を主材とし903本の構成材と444本の杭から構成され、トチの実の皮の集中が見られた。関東平野の晩期の低地利用の木組遺構で、長期的に利用されている。
2023年9月9日、奥会津博物館で「奥会津の縄文」について講演された佐々木由香氏(植物考古学)は、2016年9月のシンポジウム「考古学100年 学際研究のいま」で、次のように語っている(『縄文文化と学際研究のいま』雄山閣、2020年、109ページ)。
「植物利用からみても、従来の学説では、中期には暖かい気候に生育するクリを利用し、後期は寒くなって、寒冷地に適応して生育するトチノキを利用していたと解釈されていましたが、現在は関東地方でみると中期のクリ利用は後晩期においても継続しており、後期ではクリ利用にトチノキ利用が加わったと考えられています。私は後期になって植物資源利用の重層化、集約化が進んでいると捉えています。それは、海水準の低下などの影響で湿地林が増え、その斜面にトチノキが増加したという環境的な要因も大きいと考えられますが、トチの加工技術の向上という技術的な要因もあり、環境変動だけでは説明できません。トチノキ利用も、中期後半にトチ塚が作られ利用されていたことがわかるのですが、大きい木組でアク抜きのための装置を作って利用の痕跡がみえるのは、後期前葉以降です。資源利用の始まりの時期と、それを大量に集約化して利用する時期では異なる利用のあり方が見えます。(中略)
方形の底でかごを編む技術が広がるのは、おそらく後期からと考えています。それまでは、素材植物を薄く剥いだテープ状にできなくて、厚みがあるため、丸底で底面がU字形にカーブしたカゴが多いように思います。後期になると薄いテープ状のひごが存在するので、その背景には素材植物を管理して、薄くへぎ材を作る技術ができたために、方形のかごが作れるようになったのです」。
このことに対し阿部芳郎氏(考古学)は、
「関東では、口が丸くて底が四角い土器は縄文後期に出現し、晩期中葉まで作られる。佐々木先生の指摘されるように、その時期に関東では、かごと土器は深い結びつきを持っており、容器間の関係の複雑化が認められると思います」。
2023年8月11日に三島町民センターで開催された「奥会津の縄文講演会」の「沼沢火山と奥会津の縄文」で三浦武司氏は、前段で川俣町前田遺跡の漆塗り土器と木製品などについても講演された。縄文中期後半から後晩期までの低湿地遺跡で近年注目されている遺跡である。土器と植物質容器類の相互関係が感じられた。
先述の阿部芳郎氏は「「縄文容器論」の展開と可能性」(『縄文文化と学際研究のいま』雄山閣、2020年)で、
「厚手式の縄文中期土器は後期前葉まで継続するが、後期中葉からは器体の薄手化が進み、精製土器と粗製土器の文化が始まる。液体を貯蔵したり注いだりする壺や注口土器の増加、台付異形土器や香炉形釣手土器なども後期に出現する。
そして低湿地の木組遺構などで大量の堅果類とともに、トチのアク抜きのための粗製土器が出土するなど、土器の用途の多様化が遺跡の性格に反映する事例も増加する」としている。
アク抜きなどに手間のかかるトチなどを主体的に利用する食文化の変化が、湿地での水さらしなどを行う木組遺構の維持となっている。
日本各地で発見が続く湿地帯の遺跡と、植物質(木、植物)遺物の発見は、土器や石器しか出土していない奥会津地域の潜在的な縄文文化を再考するよう促している。特に後期の遺跡が河川沿いに近づくこと(魚類の利用)、木質加工のための湿地の利用など、中期と後期の集落立地の選択、作業場の登場(集落から離れた水場遺構)などを含め、遺跡の立地は重要な情報を示している。