【奥会津】檜枝岐村の縄文遺跡を読み解く(1) | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【奥会津】檜枝岐村の縄文遺跡を読み解く(1)

2023.11.15

長島 雄一(ながしまゆういち)

皆さんは会津地方南西部端に位置する檜枝岐村と聞くと何を思い浮かべるでしょうか? おそらく多くの方が、檜枝岐歌舞伎、尾瀬の玄関口、裁ち蕎麦、そして最奥の村、秘境などのキーワードをあげるものと思います。

過去の調査・研究~檜枝岐村の歴史は縄文時代から始まる

では、その秘境:檜枝岐村の歴史はどこまでさかのぼることができるのでしょうか? 檜枝岐村は落人伝説でも有名ですが、檜枝岐村に人間が住み始めたのは、それよりはるか昔の縄文時代ということが既にわかっています。今回は縄文時代の檜枝岐村について紹介します。

実は今日まで檜枝岐村の縄文時代に関わる記録や文献はほとんど知られておらず、またどんな遺物が村に現存するのかさえ詳しくはわかっていませんでした。

檜枝岐村の縄文時代研究に関わる文献としては、福島県教育委員会が1950年に刊行した『福島県の古代文化』、そして『檜枝岐村史』(1970年)、上野修一氏による「内陸の道」が収められた『海を渡った縄文人』(1999年)などがあげられます。これらの書物で下ノ原(しものはら)遺跡などの資料が紹介されたりしましたが、文献はこれら少数に過ぎません。また檜枝岐村歴史民俗資料館に展示されていた考古資料も少数にとどまり、残念ながら村の全体像を把握することは困難で、不明な点が多かった地域と言えます。それが2023年に開催された『奥会津の縄文』展で、未公開であった資料も初めて展示され、また同展の図録に掲載されたということは檜枝岐村の歴史研究において一つの画期となりました。

『福島県の古代文化』の著者である梅宮茂は、同書に村役場周辺に広がる下ノ原遺跡だけでなく、尾瀬に近い村西部の七入沢・小沢(こぞう)開墾地(=小沢平(こぞうだいら)遺跡)・燧岳北西麓のブナ平(ぶな平)からも遺物が採集された、という注目すべき事実を記しています。これらの遺跡は主に太平洋戦争後(昭和21年以降)に始まった開墾によって発見されたものでした。開墾作業で土器等が出土し、その情報が昭和24・25年に調査を行っていた梅宮にもたらされ、『福島県の古代文化』に掲載されるに至ったと考えられます。

梅宮は同書で「(よめ)(ごう)(大戸沢)」「見通(追分)」「下ノ原」「七入沢」「ブナ平」「小沢開墾地(バケモノ清水付近)」などの遺跡をあげています。そして、それらの遺跡については「この調査には檜枝岐村村長星数之助氏(筆者註:星数三郎氏の誤りか? 星数三郎氏は昭和22年~26年までの4年間、村長を務めた人物)の研究になるものが多い」と記しています。終戦から4・5年しか経っていない時期に、職務とは言え、遠隔の地であった当時の檜枝岐村にまで足を伸ばして調査し、本を刊行していること、またかなり山奥にまで縄文人の行動痕跡が残されていることに驚かされます。

檜枝岐村の遺跡の立地

さて檜枝岐川の上流部は、見通川・舟岐川などに枝分かれしますが、こうした支流沿いにも縄文時代の遺跡は点在しています。

     

          図 1 紹介する3遺跡の位置

檜枝岐村の縄文時代の遺跡は現在計7か所が確認されていますが、これらの遺跡の平均標高は約945m。中でも七入遺跡は1084mの高地に位置します。高い標高の地に立地することが檜枝岐村の遺跡の第一の特徴です。

縄文遺跡を概観する

檜枝岐村からは、まだ旧石器時代の遺跡は発見されていません。村に人が住み始めたのは次の縄文時代になってからです。檜枝岐村の縄文遺跡で最も多いのは後期(約4200年前~約3200年前)の遺跡で、ほとんどの遺跡がこの時期に該当します。この点が2つ目の特徴です。

しかし最近の調査によって、村の最も西、新潟との県境に位置する小沢平(こぞうだいら)遺跡から土器の胎土(たいど)に微量の植物繊維を含む早期末葉の土器(条痕文)や多量の繊維を含む前期前葉の土器が採集され、また黒曜石(こくようせき)製の(せき)(ぞく)剥片(はくへん)が開拓者の一人:星晴次氏によって採集されていたことがわかりました。さらに「道の駅 尾瀬檜枝岐」東側の見通地区にある追分遺跡からも繊維を微量に含む早期末葉の土器が採集されています。

これらの土器から檜枝岐村の歴史は、はるか7000年位前までさかのぼることがわかってきました。遺跡のいくつかを、もう少し詳しく紹介しましょう。

下ノ原(しものはら)遺跡

下ノ原遺跡は村役場周辺に広がる後期の遺跡です。かつては遺物が広範囲にわたって分布していた村内最大の遺跡です。『福島県の古代文化』には、この遺跡から出土した凹石(くぼみいし)(植物の加工などに用いられた)の図が掲載されています(図2)。また『奥会津の縄文』展図録では12ページにわたって本遺跡の土器や土偶を紹介しています。顔の部分だけで幅8.5㎝もある大型のハート形土偶(写真1)や人面が土器の外側につけられた土器は、いずれも後期初頭の遺物として特筆すべき珍しい資料です。

この遺跡から採集された遺物には前期末(約5500年前)、中期(約5000年前)の破片も見られますが、圧倒的多数を占めるのは後期前葉(約4000年前)の土器です。福島県浜通り地方などの文様を施した土器(綱取式(つなとりしき))が地域色をもって分布しており、また新潟方面の土器(三十稲場式(さんじゅういなばしき))がかなり混じっていることも、この地と他の地域の間に交流があったことを物語っています。

図 2 下ノ原遺跡出土凹石
写真1 下ノ原遺跡出土土偶