菅家 博昭(かんけひろあき)
渡辺仁氏(1919-1998)は『縄文式階層化社会』(六興出版、1990年)で、先史時代の長老の役割を指摘した。それは退役狩猟者の果たした大きな役割である。この渡辺氏は1998年に亡くなり、その学統を継ぐ安斎正人氏の「新装版の刊行に寄せて」を付して2000年に六一書房から復刊される。そのなかで安斎氏は本書のオリジナリティーについて以下のように記している。
「民族誌的情報すなわち無文字社会の構造や文化や生態についての知識を考古学に援用する方法」で、しかも「遺物間の関係または遺物と環境との関係と現生民族の文化要素間の関係または文化要素と環境との関係の類似にもとづいて遺物の社会的、文化的、あるいは生態的な機能(意味、役割、相互関係)を類推する方法」である、先生(渡辺仁)の唱える土俗考古学の見地から構築された「階層化モデル」にある。
私は1990年に初版を購入していたが、その意味についてあまり理解していなかった。当時の問題意識と合わなかった。しかし以下の2017年の安藤氏の論考を読んで、復刊された同書を改めて読み返すことになる。
『ユリイカ699号』(青土社、2017年)は縄文特集で、赤坂憲雄氏や北海道の瀬川拓郎が寄稿し、諸星大二郎の表紙であり購入して読んだ。このなかで安藤礼二氏の「縄文論序説 渡辺仁の狩猟採集社会論をめぐって」では、「定住と農耕」を現在に至るまであえて選択しない社会について述べ、交易にひらかれたアイヌ民族についての渡辺仁の評価を行った。「狩猟」を棄てることのない社会には「闘争」への嗜好が残され、その力を交易に、物質的かつ精神的なコミュニケーションへと変換させた。文明を準備しながらも未開のままにとどまることを選んだ社会、定住と農耕を切り離し、そのことによって狩猟と採集を切り離した始原の豊かな社会、アイヌの社会と縄文の社会を同時に再検討する鍵として、渡辺仁の仕事をあらためて位置づけ直す必要を説いている。
安藤氏は考古学を学び、現在は多摩美術大学の教授である。2022年11月に『縄文論』(作品社)を刊行した。2011年から2022年に書かれたものを集成している。2019年に『文学界』11月号に掲載した「縄文論」が掲載されている。
ルロワ=グーランも渡辺仁も、人類史を連続だけでなく非連続の歴史、正確には「質的な変化」が連続したものと捉えている。採集が母体となって狩猟が可能となる。あらゆる環境に耐え得る社会体制は人類(新人)による狩猟採集社会だけなのだ。新人は原人、旧人と比較して顔も体格も小型化し、そのことによって逆に器用になった手先で縫うことが可能になり、衣服をつくり、住居をつくることで、大型の獣たちが生息する極寒の地の開拓を進めることができた。
北海道アイヌの文化の根底には縄文の文化があることは、現在では、ほぼ疑うことはできない。しかし縄文からアイヌまで連続するのか、非連続(飛躍)なのか、瀬川拓郎氏の『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)を紹介している。そのなかで、瀬川氏は渡辺仁の縄文論にしてアイヌ論に批判的な言及をしていることを安藤氏は記している。
旭川市博物館の瀬川拓郎氏は『アイヌ・エコシステムの考古学 -異文化交流と自然利用からみたアイヌ社会成立史』(北海道出版企画センター、2005年)、そしていくつかの著作を刊行したのちに『アイヌ学入門』を刊行した。
そのなかで、渡辺仁は近世のアイヌ社会のあり方、自然利用の視点から「アイヌ・エコシステム」としてモデル化し、そのモデルは縄文時代の社会を復元するために有効であるとしたが、その後の考古学やアイヌ研究に「変わらなかったアイヌ論」として支配的な影響を与えてしまった。渡辺は社会の基礎をなすアイヌの自然利用のありかたは変わらなかったという点に瀬川は疑念を持つ。渡辺がアイヌの古老から聞きとり、アイヌ・エコシステムとよんだものは、縄文時代から変わらなかった自然利用や社会のありかたではなく、アイヌが交易民として生きるなかでつくりあげてきた、10世紀以降の歴史的な姿にほかならなかった。この「変わらなかったアイヌ論」は事実に即していないばかりでなく、アイヌのイメージの形成に大きな弊害をもたらしてきた(25ページ)。そしてアイヌは交易のためにシカ、キツネ、カワウソ、イタチ、クマ、サケを乱獲した事例を瀬川は紹介する。
渡辺仁氏の『縄文式階層化社会』での考察には、先史時代を考える際に、退役狩猟者(長老)の果たす役割については共感することが多い。
本書では奥会津に西接する新潟県室谷洞穴遺跡の事例を紹介している。縄文社会は男が誰でも無差別・同等に狩猟者であった(万人狩猟者制)とは見なしがたいとし、クマ猟の事例をあげる。ツキノワグマがカモシカと並ぶ主体獣とされているが、これは朝日連峰の新潟県三面(みおもて)の狩猟パターンと同じである。北方狩猟採集民の間でも、クマ猟者は最高の伝統的技術・儀礼を身に付けた第1級の猟師であり、成功者は高い尊敬を受けた。北方ギリヤーク族ではクマは宗教・儀礼的理由から行われた。なぜならクマは山と森の主だからである。秋にサケを獲りに河川に来るクマを弓矢か鉄砲で獲り、冬は穴で冬眠するクマを槍で獲った。アイヌにおいてもクマ猟はクマ祭と一体となって、伝統的文化・社会の中核を形成し、男子の最高の職業とみなされた。
室谷洞穴の縄文狩猟者達もまた当時の社会として最高度の専門的狩猟システムを身につけた第1級の狩猟者であったことは間違いなかろう。北方民の狩猟は計画的であって、生産効率から目標を定め、その動物種の生態に応じた時期と場所を選んで行動している。
室谷洞穴の縄文狩猟者達が、クマのように危険でしかも食物生産効率のよくない獲物に集中できた背景には、経済的余裕の存在が暗示される。クマ猟が縄文人の間で社会に根づいた伝統的行動となっていたことは、狩猟の特殊化(専門化)が起こっていたこと、すなわち狩猟系家族と非狩猟的家族の分化した地域社会があったことのあかしともいえる。ただしこの分化は狩猟の特殊性だけでなく、それを許容する条件として、狩猟以外で生計をたてる非狩猟型生計パターンが可能かどうかにかかっているが、縄文人の場合はその環境条件が充たされていたとみることができる。非狩猟型家族とは漁労系家族(男が漁労中心)で自主的な大型獣猟を行わない。植物は狩猟系・漁労系問わずに、女・子どもの分担であるが、小動物は女・子どもの他に男も獲る。これは大型獣と違って老人にも獲れる点が生態的利点である(75ページ)。
狩猟採集社会の首長や長老は年長の退役狩猟者群であり、植物栽培式食物生産方式の考案・創始に主役を演じた人々とみなされるに最も相応しい諸条件を具えている。狩猟者(男性)の行動域は採集者(女性)より広大で、行動域の拡大がいかに知識と経験の増大に関係するか、知識と経験の性差も意味する。狩猟者達は長年の伝統によって、動植物学、地学、天文学、生態学等の自然史的知識と経験を蓄積し、これを生計に応用する応用自然史学的な総合的知識体系を創りあげ、維持し、発展させてきた。生存の第一条件は、環境の時間的構造に対する行動戦略である。
退役狩猟者は集落の近傍を行動域として、女性や子ども達と同様に、植物採取と小動物狩猟等の生計活動を営む。また彼等老人達は、若者と壮年者達が猟漁のために集落を移動する時でも、それが多少とも固定的な集落の場合には、彼等が再び戻る季節まで移動せず残留することができた。このような生活条件が、該博な知識・経験とその応用能力をもつ退役狩猟者達に対して、農耕(植物栽培)システムの創始に必要な最適の条件と充分の機会を与えたと推定できる(203ページ)