菅家 博昭(かんけひろあき)
縄文時代の樹木の利用技術について実験考古学の都立大学の山田昌久氏が著した「縄文・弥生幻想からの覚醒」(『食糧獲得社会の考古学』朝倉書店、2005年)は興味深い。奥会津の縄文文化を考えるうえでは必須の論考であろう。
磨製石斧は7000年前に基端部形状をていねいに加工し、刃部縦断面形の湾曲面作製により保持機能を高めたり、木質内の石斧の切り抜け曲線を作り、切削効果や衝撃吸収力を高めた。
この7000前の縄文前期が、人類の定住化、工作技術獲得、森林資源でまかなった「木を利用する生活の始まり」としている。磨製石斧という斧を標準装備した人類は、芯持ちの小径木を利用する森林関与を行った。居住地近隣の森林との交渉のなかで、人類はいったん切った木が10数年から20年で伐採時と同じくらいの太さになることを知った。
石斧を使用した人類にとっては、太い木は組みづらいため、木を芯持ちのまま縄で縛って組むことが合理的であった。20年ほど経過した木を切り時を逃さず利用するためには、自由な移動が逆に制約される。人類は同じ場所に居続けて森に絶えず交渉していることで、施設用材として適した木をつねに調達できる。同じ場所に住む意味は、場所を離れることで伐採適期を失うことを回避した結果とも考えられる。芯持ちでも径20cm以下の木を利用する事例は、木の再生期間を計算し同じ場所の森林を循環利用するかたちが想定される。縄文時代の人類が木の成長時間を認識していたことで、木の成長を待って施設用材を調達できる。
縄文時代中期末(4200年前)の時期からは、人類は木を分割して使用することを行う。木割り法の獲得で、それまで利用しにくかった大径木を利用できるようになり、それまで交渉を避けていた森林も用材林として利用でき、木の伐採適期の制約を取り払った。 小径クリ材の循環利用が乱れ、太さが管理できていない未交渉の森林の木を利用するために、分割技術の獲得は、交渉木を広げる重要な技術革新であった。
芯持ち小径木を利用していた場合の集落選地が、海浜から山間までの各地で、森林空間量が一定程度確保されれば対応できたのに対し、大径木分割利用の方式では地勢や水系規模で、集落の規模拡大や継続期間に差ができることとなり、土地の価値に差ができはじめた。
定住後の生活空間には、過去の死が累積された場所が出現する。墓地周辺には配石や木柱などの表示装置が作られ、同じ居住地に住む人類にとって、日常空間は、自分につながる過去の縁者情報がある場所となる。こうした過去情報はその土地を占有し、空間内資源を消費し、器具や施設をしようしてきたことの妥当性(権利)を他者に主張する。
縄文中期には複数系統の集まった系統社会が、晩期にはそうした集落の集まった地縁社会が形成されたのであろう、とする。
縄文時代の器具や施設の保有・使用は、個人あるいは2~3人で、分落集団で、集落全体で、複数集落でということとなり、この重層化は、それを使用する権利が存在したとして捉え直す必要もある。
狩猟採集社会、農耕社会という予定調和から脱却し、歴史的過去の人類社会を劣ったものとした進化史観を背景とした未開・野蛮・文明・権力という価値基準から「使用や保有の権利・権利の制度化・価値の継承・社会基盤の構築」などの事象を開放させるものでもある、としている。