長島 雄一(ながしまゆういち)
縄文土器は粘土と砂などを混ぜた土で作られ、今で言う焚き火で焼かれたと考えられています。柳津町の石生前遺跡からは縄文時代中期(約5000年前)を中心とした土器が土器廃棄場を中心として大量に出土しており、その量は収納用の箱で約700箱分。重さに換算すると約7tにもなります。
石生前遺跡の土器は大きいという点も特徴です。こうした大型で立体的な土器を作る技術は相当高かったでしょうし、大量の土器を作るのは容易ではなかったはずです。
では、これらの膨大な量の土器は、具体的にどこで誰が作ったのでしょうか? 「そんなの、そこに住む人が作ったに決まってる。」と皆さんは言うかもしれません。では、その証拠は?
これは意外に難しい問題です。残念ながら石生前遺跡の発掘調査では土器製作工房の様な遺構や土器を焼いた時の地面が赤く焼けた痕跡などは見つかっていません。実は土器を焼いた痕跡は他の遺跡でもなかなか見つからないものなのです。
2023年、再整理の作業中、この問題を解くヒントが見つかりました。それは何の変哲もない粘土の塊でした。しかし、よく観察すると、それらは石生前ムラで土器が作られていたことを推測させる資料でした。それをいくつか紹介しましょう。
写真①をよく見てください。何か模様のようなものが見えませんか? これはカゴあるいはザルの痕です。まだ柔らかい段階の粘土(土器の材料)を入れたり、運搬した時にできた容器の痕跡と考えられます。
写真②の粘土には、はっきりと指の痕が残っています。その大きさや太さから大人の指と思われます。片面には親指、もう片面には別の指が入る格好です。もちろんこれは当時の縄文人の指の痕であり、粘土を扱っていた証拠でもあります。
写真③の不定形の粘土は火を受けて硬くなっています。
④はあまり火を受けずに放置され、そのまま固まってしまったような粘土です。
また写真⑤のようなシワの残る紐状の粘土も見つかっています。
こうした粘土紐を積み上げて縄文土器は作られ(「輪積み法」)、細い粘土は土器の表面に貼り付けるなどして装飾等に使ったと考えられます。
写真⑥は台形土器あるいは台状土製品・器台・器台形土器と呼ばれている土器です。
用途については諸説ありますが、土器製作台あるいは土器を乗せる台(器台)などと考えられています。石生前遺跡からは台形土器が3箱分ほど出土しています。台部と脚部の底面に回転使用によってできたスレ(摩耗痕)が観察されることから、一応、土器製作台として使われたものと推定していますが、用途についてはさらに十分な検討が必要です。
以上のような資料は、石生前のムラで土器が作られていた証拠と考えてよいと思われます。中でも粘土塊は今まであまり注目されてこなかった遺物で、発掘現場や整理作業で見逃されてきた、あるいは不明土製品として報告されてきた可能性があります。焼成粘土塊(しょうせいねんどかい)と呼ばれています。焼成粘土塊の報告例は増えており、例えば宮城県仙台市高柳遺跡・上野遺跡、蔵王町谷地遺跡、新潟県津南町堂平遺跡、東京都多摩ニュータウンNo245遺跡などで見つかっています。
粘土塊は土器の胎土分析で製作地を推定する際には、確実な在地の基準材料としての価値も持ちます。今後もっと重視してよい資料と言えるでしょう。
では石生前遺跡が土器製作専門のムラかと言えば、そうは言い切れません。なぜなら先に述べたように土器工房や焼成遺構などは見つかっていませんし、一般的な竪穴住居跡もたくさん見つかっているからです。工房は調査区外にあるかもしれませんが、今のところ不明です。とは言え石生前のムラで土器作りが行なわれていた可能性はあると言えます。今回紹介した資料は、例えば只見川流域を基盤とした地域集団内における拠点的集落での土器製作を想定させます。今後、本遺跡や周辺遺跡との比較検討が必要です。