【会津の縄文時代をのぞいてみよう】 4.中期 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【会津の縄文時代をのぞいてみよう】 4.中期  

2023.07.01

長島 雄一(ながしまゆういち)

4.中期
 大きな集落の出現

 縄文時代の中で最も大規模な集落が出現する時期です。中期初頭(大木7a式)の遺跡は発見例が極めて少なく、会津地方では猪苗代町と磐梯町にまたがる法正尻遺跡、喜多方市(旧山都町)日照田遺跡、会津坂下町勝負沢遺跡、会津美里町油田・中江聖之宮遺跡、柳津町石生前遺跡など少数の遺跡をあげられるにすぎません。
 次の中期前葉(大木7b式)の段階になると遺跡数は増え、後に述べる法正尻遺跡では竪穴住居跡や貯蔵穴が造られ、油田遺跡では中期初頭から前葉の竪穴住居跡が27棟、また中江聖之宮遺跡でも中期前葉の竪穴住居跡が5棟発見されています。石生前遺跡でも大木7b式土器は比較的多く見つかるようになり、地域・地点によって差はあるものの、中期前葉の段階になって沼沢火山噴火からの本格的な復興が進んだものと考えられます。石生前遺跡では沼沢火山起源の軽石を利用して浮子(浮き)状のものを作ったり、一部に穴をあけでペンダント状のものを作ったりしています。こうした例は、西会津町や喜多方市博毛遺跡(旧高郷村)、新潟県阿賀町原遺跡など同時期の遺跡、また時代は異なりますが三島町荒屋敷遺跡でも見つかっています。中期前葉~中葉の縄文の人々は入手が極めて容易となった軽石を加工し道具として使うようになったのです。

軽石製石製品(石生前遺跡)

 中期中葉~末葉(大木8a・8b・9・10式期)の集落跡は縄文時代を通じて最も多く発見され、遺跡数はピークに達します。そしてまた規模も大きな集落(ムラ)が形成されていきました。大木9・10式段階では竪穴住居内に複式炉と呼ばれる大型の炉も造られるようになります。
 この時期の遺跡としては法正尻遺跡の他、西会津町上小島A・C、小屋田・芝草遺跡、喜多方市(旧山都町)下屋敷遺跡・(旧高郷村)博毛遺跡、会津坂下町北川前・花畑遺跡、会津美里町油田・十五壇遺跡、柳津町石生前・池ノ尻遺跡、三島町佐渡畑・入間方遺跡、金山町石神平・本名寺岡遺跡、只見町窪田・舘ノ川・小川上野・深沢・外出遺跡、下郷町栗林・湯野上遺跡、南会津町(旧田島町)上ノ台・寺前・上和田原・長野遺跡、旧舘岩村の松戸ケ原・岩窓・鐘撞堂遺跡、旧南郷村堂平遺跡、昭和村和久平遺跡など実に多くの遺跡をあげることができます。発見された竪穴住居跡や貯蔵穴の数、土器・石器等の量はいずれも他の時期を凌駕しています。

法正尻遺跡近景(重なり合う遺構)

 こうした遺跡の中で最もよく縄文のムラの構造が解明されたのは法正尻遺跡です。磐越自動車道の建設に伴って1988・89年に調査されたこの遺跡からは中期初頭~末葉(大木7a~10式)の竪穴住居跡129棟、貯蔵穴を含めた土坑759基など多くの遺構が検出され、居住空間と貯蔵空間を分離するなど、この時期の集落構造をよく示しています。中期前半には長方形の住居跡が遺物包含層と共に発見され、中期末には複式炉をもつ竪穴住居跡が、またフラスコ状土坑の底面からは食料貯蔵に使われたと推定される土器が大量に出土しています。重なり合う竪穴住居跡は、この集落に大人数が住み、また長期にわたって住み続けられていたことを雄弁に物語っています。出土遺物も膨大な量にのぼりますが、地元の土器に混じって中期前半の東関東地方に分布の中心をもつ土器(阿玉台式)や北陸地方の土器(新保・新崎式)、新潟方面に分布の中心をもつ立体的な火焔型土器の出土は、会津地方が太平洋側と日本海側との文化交流の場であったことを非常によく示しています。出土した土器の一部は国の重要文化財に指定されました。