【会津の縄文時代をのぞいてみよう】 3.前期 沼沢火山の爆発 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津を学ぶ

【会津の縄文時代をのぞいてみよう】 3.前期 沼沢火山の爆発 

2023.06.15

長島 雄一(ながしまゆういち)

3.前期

 奥会津地方の前期の遺跡としては、先に触れた南会津町石橋遺跡・宮ノ下や同町上ノ台・上和田原遺跡、旧伊南村分では堂平遺跡、下郷町南倉沢・塩生・下平・明神遺跡、昭和村中坪A・古屋敷遺跡などをあげることができます。このうち中坪A遺跡では2018年の発掘調査で落とし穴12基が直線状に並んだ状態で検出されています。
会津地方では前期に竪穴住居跡群によって構成される集落が出現し始めますが、その代表は1984~88年に調査された会津美里町(旧会津高田町)の冑宮西遺跡や2002~2007年に調査された油田遺跡です。
 冑宮西遺跡は宮川扇状地の中間に位置する遺跡で、東北地方南部に分布する前期前葉の大木2a式土器や後半の大木5式土器を主体とする遺跡です。第2回目の土器編年表に示しましたが、大木式土器とは宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚を基準(標識遺跡)として名付けられた東北地方南部の土器型式名です。注目されるのは、この東北の大木5式土器と共に、関東地方に分布の中心がある前期後半の浮島式・興津式・諸磯式土器などが一緒に出土する点で、当時の両地方の交流を物語っています。また普通の竪穴住居跡の4倍もの床面積をもつ隅丸長方形、長さ13mの大型住居跡も貴重な発見です。油田遺跡でも長軸7mを超える竪穴住居跡が、後に述べる沼沢火山灰層直下から3棟発見されています。その他、会津盆地内では会津美里町鷺沢・十五壇・下谷ケ地平A・鹿島遺跡などで前期後半の土器が出土しています。

冑宮西遺跡の大型住居跡

沼沢火山の爆発

 しかし、前期の終わり、それまでの人々の生活を一変させる火山噴火が会津で起きました。金山町にあるカルデラ湖=沼沢湖出現のもととなった沼沢火山の大噴火です。最新の研究では今から約5500年前に爆発したとされており、三島町では2020年に爆発によって埋没したケヤキなどの巨木が大谷川から発見されて大きな話題となりました。2022年12月には地元の企業である佐久間建設などが中心となって地質学や考古学の研究者を集めたシンポジウムが開催され、埋もれ木発見以降の貴重な研究の成果が発表されました。

埋もれ木の採取

例えば会津盆地西部・西南部などの遺跡(会津美里町鹿島・冑宮西・上道上B・中丸・油田遺跡・会津坂下町大村新田・盗人沢・次郎坂遺跡など)では沼沢火山から噴出した軽石や火山灰が観察され、遺跡によっては縄文前期と中期の層の間に、その堆積を明確に確認することができます。この噴出した火山灰は会津地方だけでなく中通り地方、さらには太平洋まで達したことが確認されています。
 沼沢火山の噴火の程度を示火山爆発度指数(VEI)は9段階のうちのレベル5で、これは噴出物が成層圏に相当量達するレベルであり、例えば6世紀前半の榛名二ツ岳伊香保噴火、1707(宝永4)年に起きた富士山の宝永噴火に匹敵する大噴火だったと考えられています。
 しかし噴火やそれに伴う火砕流だけに止まらない事態が、その後連続して発生しました。大量の噴出物は只見川を埋め、その堆積物が峡谷部では川を堰き止め、その結果、上流部には一時的に堰止湖が出現し、それが決壊して下流域に新たな堰止湖を作り出しました。喜多方市山都町周辺、旧高郷村荻野周辺、野沢盆地、さらに新潟県阿賀町・阿賀野市周辺では「津川湖」と呼ばれる天然のダム湖が出現したのです。
 堰止湖によって比較的標高が低い中・低位の段丘は湖底に沈み、そこには大量の軽石や砂などが再堆積しました。会津坂下町など所によっては厚さが20m以上に及ぶ場所も出現ました。縄文の人々の居住地であった段丘も只見川流域、その下流の阿賀川流域では短期間で冠水・水没する事態になったものと推定されます。噴火や堆積・再堆積によって只見川・阿賀野川(阿賀川)流域の一部は一時的に無人の地と化しました。まさに未曽有の甚大な被害が、この地の縄文の人々に及んだのです。
 先に述べたように会津盆地西縁辺部等では前期の遺跡が確認されていますが、前期末の沼沢火山噴火直後にあたる前期末~中期初頭の時期になると遺跡数は大きく減少します。後の回で述べる柳津町石生前遺跡では中期初頭から、わずかながら人々の生活痕跡が確認されていますが、前葉から中葉(大木7b・8a式)の時期に至って大きなムラが形成されていきます。中期初頭の遺跡が極端に少なくなる理由は、沼沢火山がもたらした大量の堆積物によって、食料となる植物や動物が激減し、中期前葉まで植生等の環境が回復しなかったからでしょう。大規模な火山活動は大きな環境の変化を、その周辺にもたらしますが、沼沢火山の爆発は、当時の会津地方の縄文人に非常に大きな打撃を与えたのです。
 また軽石や火山灰等の分厚い堆積物は、噴火前(前期末以前)までの縄文人の生活痕跡(=遺跡)を覆い隠しました。前期末以前の遺跡が只見川流域や阿賀川下流域の低位部分でほとんど見つからないのは、人々が当時そこで生活していなかったからではなく、非常に分厚い堆積物によって遺跡が発見されにくくなったからと考えられます。只見町では町内の七十苅遺跡から前期の土器が数点出土していますが、あとは中期以降の遺跡で占められている現状です。
 下の写真は会津美里町に所在する上道上B遺跡の土器出土状況そして出土した前期末の土器です。この遺跡では大木6式でも古い段階の土器が沼沢火山から噴出した厚さ約30㎝の火砕流に押しつぶされたような状態で出土しました。1982年に私はこの遺跡を発掘しましたが、イタリアのヴェスヴィオ火山の大噴火で埋まった有名な町ポンペイの光景を想像しながら、これらの土器を掘ったことを今でも覚えています。恐怖におののく当時の縄文の人々の様子が見えるような発掘現場でした。

出土した大木6式土器
沼沢火山層直下の土器出土状況