アニメは災害をいかに描いたか | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

アニメは災害をいかに描いたか

2024.05.01

赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長) 

『区画整理士会報』227 より

〈1〉

 日本のアニメや漫画は、どのように災害を描いてきたか。気にはなっていたが、本格的に触れる機会はなかった。ここでは、新海誠監督のアニメ映画『天気の子』と、芦奈野ひとしの漫画『ヨコハマ買い出し紀行』を取りあげるが、その選択はたぶんに偶然に導かれてのもので、広く目配りした結果というわけではない。『天気の子』は何度か観ている。『ヨコハマ買い出し紀行』という漫画は、ある編集者に勧めてもらったことをかすかに覚えていた。手元にあるのは十四冊、どうやら続刊はなく完結しているらしい。書棚の隅っこに埋もれていたのを引っ張りだして、はじめて読んでみた。
 まず、新海誠監督のアニメについて考えてみたい。新海監督の近年の長編アニメといえば、『君の名は。』(2016)/『天気の子』(2019)/『すずめの戸締まり』(2022)が挙げられるが、そこに共通するテーマとして、隕石の衝突・異常気象による連続降雨・大地震と津波といった天変地異による災害が見いだされる。新海はおそらく、三・一一以後の現実を、「災後」としてではなく「災間」として可能なかぎり誠実に引き受け、それを連作アニメの形で表現してきた稀有な映画監督なのである。
 念のために、ここであえて「災間」という耳慣れぬ言葉を選んでいることに触れておく。どうやら、この時代は天変地異が連なるように頻発する時代に入っているのではないか。おそらく、巨大な災害に見舞われたあとに、そこからの復旧や復興をテーマに掲げるだけでは足りない。やがて間をおかずにやって来るはずの巨大な災害に備えながら、つかの間穏やかな日常を生かされているといった危機感こそが求められる。復興は未来に向けて、いま・ここからの創造的な構想として起ちあげてゆかねばならない。「災間」という言葉には、そうした思いが託されていると考えている。
 思えば、『君の名は。』はたしかに、愛すべき作品ではあった。しかし、ここで立ち止まっていいのかといった逡巡や懐疑は消えやらず残り、何よりもひ弱な印象を拭うことができなかった。東日本大震災のあと、ひたすら被災地を巡礼でもするように歩き続けた日々が、わたしにはあった。いまだ、たくさんの人たちが茫然と、瓦礫の山のかたわらに立ち竦んでいた。いまも、この地震や津波が夢のような気がする、夢であったらあの人もこの人も生きていたのに……と呟くように語る人たちに、くりかえし出会った。しかし、悲惨な現実が覆されることはありえない。むしろ、三十年後に訪れるはずであった未来の風景が、早回しのカメラの映像のように、いま・ここに手繰り寄せられてしまったと感じることは多かった。だから、すでに巨大な防潮堤が海岸線に沿って姿を現わすなかで、『君の名は。』というアニメが浮かびあがらせた、夢や宗教的な祈りによって時間の結びをほどいて、起こってしまった隕石の衝突という天災を回避する物語を、甘やかな夢のように感じずにはいられなかった。