赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)
「災禍の果てに」〈6〉一揆(河北新聞2020,10,14)
九月の末、釜石から三陸鉄道リアス線に乗った。復興とはなにか、という問いが、窓の外にゆらゆらと蜃気楼のように揺れていた。田野畑駅で降りると、そのまま車で明戸(あけと)に向かった。津波に破壊された防潮堤の跡が生々しく保存・整備されていた。説明板がとても簡潔にして、適確に被災状況を伝えている。あくまで自然科学的な知見にもとづいた説明がなされている。
明戸の一本松に出会った。ひょろひょろとした感じで、高さは十数メートルほどか。上のほうに、まるで新盆の魂を招く高灯籠のように、ほそく枝が茂っている。明戸浜は十七メートルを越える津波に襲われているから、この一本松はまったく水面下に没したはずだ。傷だらけで生き残った一本松を見あげる。津波の底から、黒ずんだ水に揺れる松の影を、水のおもての向こうに広がっていたはずの空を見あげている、そんなことを一瞬だけ思った。
くりかえし押し寄せた津波によって、防潮堤は決壊し、昭和十二年に県有防潮林として植栽された黒松はなぎ倒され、その背後の人家やサケ孵化場などはみな流された、という。道路を兼ねた防潮堤があらたに造られ、その内側には松の植林エリアが広がっていた。明治、昭和、平成と三度にわたって、大きな津波の被害を受けた。
明戸はかつて原発の建設候補地であった。どこに建てられることになっていたのか。震災の前と後の航空写真を眺めながら、明戸のまぼろしの原発がそこにあったとしたら、無傷であったはずはないと思う。明戸浜では、かつて広大な山林を背にして製塩業が盛んにおこなわれていた。東京電力福島第一原発がやはり、塩田地帯に誘致されていたことを思いだす。
田野畑の母と敬愛される女性がいる。岩見ヒサさんである。震災から四年後に九十七歳で亡くなっている。かつて日本のチベットと呼ばれ、無医村であった田野畑村で、開拓保健婦として献身的に働いた人だ。この人が、明戸への原発誘致計画にたいする反対運動の先頭に立った。ずっと気になっていた。なにが原発を拒む原動力になったのか。しかし、まともに取材ができる状況にはない。
わたしの手元に、『吾が住み処(じょ) ここより外(ほか)になし』という、岩見さんが半生を綴った著書がある。その一節は「原発反対奮戦記」と題されている。昭和五十六年から翌年にかけて、田野畑村は明戸が原発の有力な候補地として浮上したことで、大きく揺れ動いた。そのとき、岩見さんは村婦人団体連絡協議会(村婦協)の会長であった。男たちとはまったく異なり、村婦協の女たちは全員が「原発誘致反対」の声をあげた。明戸の人たちもみな、「故郷を棄てたくない」という。岩見さんはそれを受けて、村婦協会長の立場で反対運動を展開することになる。
ただ、美しい田野畑の自然を残すために、村の人々のいのちと暮らしを守るために、原発誘致に異議を唱えたのだ。開拓の村々をひたすら歩いた保健婦としての日々、そこで培われた村の女たちとの信頼の絆こそが、岩見さんを支えたにちがいない。そうして田野畑村は昭和五十年の田老町に続いて、原発受け入れを拒んだ。岩手は原発のない県に留まった。岩見さんは「奮戦記」の終わりに、同じ時期に候補地となり、原発の使用済み核燃料再処理工場の建設へと突き進んだ六ヶ所村に思いを馳せている。福島第一原発の爆発事故を知ったとき、なにを思ったか。いのちと暮らしを守ろうとした女たちの選択の正しさを、きっと寿(ことほ)いだにちがいない。
帰りぎわに、田野畑村民俗資料館に立ち寄った。ここには、三閉伊一揆と呼ばれる、近世末期に盛岡藩を揺るがした一揆の資料があると聞いていた。百姓たちは処罰者を出さずに、一定の要求を認めさせた。「安堵状」と称されている奉書が、桐の箱に収めて、頭取多助の家に伝えられてきた。この資料館そのものが、一揆の精神風土のシンボルのような気がした。
あれは女たちの一揆だったのか、ほくそ笑むように思った。
☆
「災禍の果てに」〈7〉一冊の本(河北新聞2020,11,11)
本とは何か、という問い。
東日本大震災のあと、一週間ほどは本が読めなかった。ただ、テレビや新聞や、パソコンの画面に眼を凝らしつづけた。刻一刻と変わってゆく被災地にかかわる情報がすべてだった。頭は痺れていて、ほかには何も考えられなかった。五、六日が過ぎて、はじめて手に取ったのは、『ある明治人の記録』という新書だった。戊辰戦争の敗北のあとに、下北半島へ「シベリア流刑」(司馬遼太郎)のごとく追放された会津藩士・柴五郎の遺書であった。わたしはそれを、覚悟を決めるためだけに再読したのだった。
それから数カ月が過ぎて、岩手県遠野市でひとつのプロジェクトに取りかかった。遠野文化研究センターが活動拠点になった。全国に呼びかけて本を寄贈してもらい、それを被災地に届ける。シンプルな活動だ。しかし、そうした取り組みの多くは失敗していた。そのように見えた。一年足らずで、三十万冊の本が集まった。それをボランティアの方たちがきれいにして、分類し、一冊ずつパソコンに登録した。廃屋の紡績工場を借りて、掻き集めた書棚を並べ、図書館のように配架した。それを、必要とする場所に、必要なだけ送り届けた。二十万冊以上の本がそうして、被災地の幼稚園や学校にもらわれていった。
四万冊が残った。それは福島県会津坂下町の、廃園になっていた幼稚園に運び込まれた。ボランティアの人たちが集まり、公的な予算なしに図書館を作った。それから五年あまり、この「ふくしま本の森」はいまも活動を続けている。一万冊以上の絵本や児童書が会津の子どもたちにもらわれていった。専門家に選んでもらった「100冊の絵本」が三セット、奥会津の幼稚園や保育所などに貸し出され、巡回している。
眠っていた本たちが遠野に送られ、被災地に寄贈され、さらに会津であたらしい命を吹き込まれ、本を求める子どもたちのもとに届けられている。あるとき、「ふくしま本の森」を主宰する遠藤由美子さんが呟いた言葉が忘れられない、「返さなくてもいい図書館を作りましょう」と。どこか出版社の社長さんは、「図書館のせいで、本が売れなくて困る」と言われたとか。しかし、図書館すらまともになく、書店など一軒もなく、家のなかに週刊誌すら転がっていない環境で暮らす、たくさんの子どもたちがいることを、その人は知らない。本に親しむ機会を奪われている、その子たちがどうやって本好きになり、本を買う大人になるだろうか。だから、眠っている本を寄贈してもらい、それを子どもたちに届けたい。これはね、あなたが大好きになったら、手元に置いておいていいのよ、でも、必要がなくなったら誰か友だちにあげるか、ここに返してね、そう、きっと遠藤さんたちは囁きかけている。
福島県南相馬市の小高にある、フルハウスという本屋さんを訪ねた。作家の柳美里さんが作られた新刊書の書店である。本に向けての愛と信頼に満たされている、気持ちのいい空間だった。それはきっと、本以外の何ものによっても醸し出すことのできない匂いであり、豊かな表情である。何冊かの本を買い求めた。その一冊、柳さんの『南相馬メドレー』というエッセイ集のなかには、本そのものについて触れられた個所があった。
柳さんは書いている。本はたんなる商品ではない、読者は消費者ではない。本を仲立ちとして、「自分の中に確かに存在するけれども、目では見えない「こころ」と出会うことができる」し、「そのまま異世界に通じたり、存在という事実そのものに立ち戻らせてくれ」る。現実のなかに居場所がなかった子ども時代には、本にしがみついて、その登場人物と手に手を取り合って生きてきた、という。だから、「この世に誰一人味方がいなくても、本があれば孤独ではない」し、それは「この世に残された最後の避難場所」なのだ、そう、柳さんは書いている。
わたしたちの近代は、数も知れぬ、一冊の本との出会いに支えられてきた。小高という町が島尾敏雄や埴谷雄高の故郷であったことを、思う。